いや、あるいは山南は、共に書物に遊ぶことを通じて伊東の見識と人柄を知り、信用して、自分の後を彼に託すつもりで、新撰組の表舞台から身を引いたのかもしれない。
山南は、遺書も辞世の句や詩も残さなかった。
黙って独りで死んでいったのだ。
斎藤の目の前で、突然に友を亡くした伊東が震えている。
なぜ、と、答える者のない問いを繰り返しながら、怒りに光っていたまなざしは、次第に絶望と思案に沈んでいった。
このときに伊東が何を考え、決意したのかを斎藤たちが知るのは、山南の死から二年余り後、慶応三年(一八六七年)三月のことである。
二年の間に、佐幕派の近藤と倒幕派の伊東の間には、やはり埋めがたい溝が生じていた。
両者に妥協点は見当たらず、伊東はついに、近藤よりも自分を選んだ同志十五名を率いて、新撰組を離脱した。



