休憩中、副店長の高橋さんがげらげら笑いながら、遅番の平田さんがぷりぷり怒りながらやってきた。何があったのか聞いてみると、指で涙を拭いながら高橋さんが教えてくれた。

「さっき吉野さんに、恋人の誕生日を知ってるかって聞かれて、そりゃあ知ってますよって言ったのね。プレゼントとか食事とか考えないといけないからさ。そしたら吉野さんきょとんとしてて。なんと吉野さん、彼女の誕生日知らないんだってさ。昨日までフルネームも知らなかったらしいよ」

「え……?」

「その話を平田にしたら、出勤早々吉野さんに抗議に行ってさ。吉野さん硬直してたよ」

「だって彼女が可哀想じゃない! 誕生日も祝わないんだからどうせクリスマスも何もなかったんでしょ? バレンタインにチョコもらっても絶対お返ししないもん! そういうの気にしない彼女だったとしても、やっぱり二人でイベントを過ごしたら嬉しいはずだもん! そういうのってなかなか切り出しづらいんだから、吉野さんがしっかり聞き出さないと!」

 平田さんの演説は止まらないし、高橋さんはそれを聞いてずっと笑っていたけれど、わたしの耳にはもう聞こえていなかった。

 吉野さんに、彼女がいる? 絶対にいないと思っていたのに。それが妥当だったはずなのに。二千円札も賭けたのに。いや、でもそれは本当の話なのだろうか。恋人の誕生日を知っているかどうか、一般的な意見を聞いただけじゃないのか? だって吉野さん世事に疎そうだし。何を考えているのか分からない系男子なんだから、こういうことを急に思いついたとしても不思議ではない。




 どうしても吉野さんと話がしたくて、退勤してもスタッフルームに残っていた。一時間ほど経ってスタッフルームにやってきた吉野さんは、やたら疲れた顔をしていた。聞くとどうやら今日出勤のスタッフ全員に質問の件を追及されたらしい。

「それは大変でしたね」

 苦笑しながら言うと、吉野さんはロッカーから取り出したコートを羽織りながらうーんと唸る。

「まあこれで恋人の誕生日くらい知っておくもんだって分かったから」

 ああ、やっぱり思いつきで一般的な意見を聞いただけか、と安心したのも束の間。帰り支度を終えた吉野さんが、もうずっとスタッフルームの隅に置いてあったギターケースを持ち上げたからどきっとした。

「ギター、持って帰るんですか?」

「うん、聴かせてやろうと思って」

 誰に、とわざわざ聞かなくても、次の言葉は想像ができる。わたしが望んでいない言葉だ。

「彼女に」

 失恋確定。この数時間、動揺しては落ち着かせるという行為を繰り返してきたけれど、ついに出た結論に、思考が追い付かない。気付けば畳みかけるようにこんなことを言っていた。

「でも誕生日もフルネームも知らなかったんですよね。それって付き合ってるって言えるんですかね。それについて何も言わなかった彼女さんもどうかと思いますよ。普通付き合い始めたらまずそういう話をしますよね。それを知らないまま過ごすって。どんな付き合い方をしてるんですか。本当にお二人が愛し合っているのかわたしは疑問です」

 吉野さんは無言だった。ギターケースを持ったまま無表情でわたしを見て、そしてこてんと首を傾げる。

「誕生日やフルネームを知らなくても、他のことは知ってる」

「え……?」

「あいつの好きな食べ物とか得意料理とか、好きな映画とか小説とか、どこを触れば悦ぶとか寝顔とか。なんなら背中にあるほくろの位置は本人より知ってる」

「あ……」

「伊藤さんの言い分は、悪いけどよく分からない。誕生日やフルネームを知っていることが、そんなに偉いの?」

 返す言葉が見つからない。身体も、指先さえも動かない。お尻は椅子に、指先は太ももに貼りついてしまったみたいだ。

「好きだから一緒にいる。それだけだよ。じゃあお先に」

 吉野さんがスタッフルームを後にしても、わたしは固まったまま、さっきまで彼が立っていた場所を見つめていた。

 こんなに長い時間ふたりきりで会話するのは初めてのことなのに、ちっとも嬉しくない。むしろ、話さなければ良かったと後悔した。無口な吉野さんがこんなに喋るのもレアなのに、他のスタッフに自慢もできない。

 今のわたしにできることは、静まり返ったスタッフルームで、声を押し殺して泣くことだけだった。