お母さんはいつもと変わらない様子でキッチンに立って家事をしていた。

「今日は学校どうだった?」

洗い物をしながら、お母さんが訊ねる。


私は少し考えて「楽しかったよ」と答えた。


「友達とたくさん話せたんだ」


お母さんは嬉しそうに「そう」と微笑んだ。

その微笑みが私の胸を刺した。


「かばん置いてくるね」


悟られないように少し明るい声でそう言うとリビングを後にした。

廊下に出てリビングの扉を閉めると、足を止めて溜め息をこぼした。


…お母さんに、嘘をついた。

全部が嘘だったってわけじゃないけど、正直ではなかった。

確かに嬉しかったことがあった。

例えば今日の日本史の小テストが満点だったとか、英語の時間教科書を音読せずに済んだとか。

ハルの好きな人が私だと分かったこととか。

だけどたくさんの『嬉しかったこと』『楽しかったこと』をすべて黒で塗りつぶすような、悲しいことがあったんだ。


私は自分の部屋にもどって制服を着替えると、英語の参考書を読んだ。


『好きだよ』


心に穴が開いたんじゃないかと思うほどの悲しさが、心や思考回路を蝕んでいく。

何もかもが停止してロボットか人形になってしまわないように、別のもので頭をいっぱいにしようと思った。

だけど英文は、瞳に映る文字列は、頭の中をするりとすり抜けて、心や思考回路を満たしてはいかない。

はあ、と溜め息を吐いたときだった。