リナリア

* * *

 髪に熱はないはずなのに、そこに熱があったかのような、そしてその熱に浮かされて名残惜しく思ってしまった程度には焦がれた。だからこそ自然と手を伸ばしてしまった。
 寂しそうに見えた表情を繋ぎとめたくて、そんなことはないと否定したくて伸ばした手は、熱のある部分に触れることはできず、かろうじて髪に触れた。その髪は柔らかくて細くて、あっけなく指の隙間からこぼれ落ちていった。

(…変なところで、言えなかったな。…でも、言うべきことでもないかもしれない。)

 恋に落ちた表情と言われて、撮影済みのシーンを思い出す。そう、あの時、知春を撮影していたカメラの向こう側には名桜が立っていた。目を閉じて、深くあの日に潜る。目の前にいるのは彩羽であり『杏』。だから『大和』としてカメラの前に立っていたし、目で追いかけたのも、心を想ったのも『大和』としてだった。

(でも、名桜が見えて、…なんか、腑に落ちちゃった気持ちも一緒に降りてきた。)

 今までに役柄に引っ張られてしまうことは一度だってなかった。それはきっと、経験したことがないものを求められていなかったからだと思う。しかし、今回は初めて「経験していないこと」を求められた。だからこそ、経験していない部分の感情の引き出しを開けなくてはならないときに、現実の感情に近いものを引き寄せようとしているようにも思えた。
 名桜が現場にいるときは、ふと自由になったときに名桜を目で追ってしまう。楽しそうにしているとほっとするし、小難しい顔をしていたらそれとなく話を聞きたいような気持ちになる。普段の写真の撮影だけではおそらく知りえなかった感情だった。

「…結構ね、役に入り込むのに気合が要る。」
「今回は、そういう感じということですか?」
「うん。だけどね…。」

 知春は名桜の澄んだ瞳を見つめた。自然と表情が和らぐ自分を感じる。

「一回目を瞑って、名桜とこういうのやったなーとか、あの時こうしたなとかいうのを思い出すと、結構すぐに入れる。前までは入り込むっていうより降りてくるって感じだったのにね。今回はそうはいかないみたい。」
「だ、大丈夫ですよ!知春さんはちゃんと『大和』です!私、原作本何度も読んできたので、イメージはばっちりだと思うんですけど、全然ずれてないです!」

 いつもと打って変わって力強い名桜が可愛くて、ふっと笑みが零れた。