「友達のことも家族のことも全部ちゃんと憶えてたのに、あなたのことだけきれいさっぱり思い出せなくて」
動かない彼のすきまを風が吹き抜けてまたにおいが届く。
彼の手がぴくりと揺れた。
「以前の私にとって思い出したくないことだったのかも、ってお医者さんに言われたんだけどなんかそうは思えなくて」
ゆっくり動き出した彼の手に目を移さず、彼の目だけを見つめて。
「自分の手帳を見てたとき、端に書いてあったんです。喜一って。……それをぐちゃぐちゃに消してあって」
表情を変えないままその手は私の頬に到達して、ぴたりと触れた。
本当に血が通ってるのか疑うほど冷たくなった指先で。彼は、そこを撫でた。
「なんとなく、本当になんとなく、前の私にとってきっと大切な記憶だったんだと思ったから」
親指がそっと、確かめるように頬をすべる。
抑えきれない愛しさを含んだみたいなその文字を見て、我慢ができなくなった。
憶えてないのになぜか焦燥に駆られて。
「超嫌がられるよって、いろいろ知ってる周りの友達には止められたけど、つい会いに来ちゃいました」
私は小さく笑って息を吐いた。
その振動でまた彼の指先は震える。は、と彼は喉に空気を送った。


