「俺の父親は、その二年前に交通事故で亡くなっていて、母は女手一つで俺たち…俺と幼い妹を養っていた。
それでも母は、帰るのが九時よりも遅くなることはなかった。
けれどその日は違った。
十時を過ぎても母は電話をいれることさえなく、帰宅しなかったんだ。
父のように母もいなくなってしまう。
そんな恐怖を感じて、俺は妹を連れて母の仕事場へ向かった。
……そこへ行く途中の道で母は……」

鹿島先輩はそこで言葉をきった。

手がヌルッとする。

「強姦にあっていた」

自分の体がビクリと震える

何かの発作のように

俺の体は震えて

無意識のうちに俺は自分の体を抱きしめていた。

「俺はガキの正義感で、母を助けなければ、と思った。
人を呼ぶのが最善だったのだろう。
だが俺は動揺していて、妹の持つ玩具で後ろから殴りかかった」

この話をするから

鹿島先輩は俺に確認したのだろう。

聞くか? ……と

「逆上した男はナイフを出して、斬りかかってきた。そして……
母と妹は……


死んだ」

俺はヌメっている手を見る。

汗が血のようで

怖くなる。

「俺だけが助かって今も生きている」

これが鹿島先輩の……

「秘密……」

「俺のせいで母と妹は命を落としたにもかかわらず、俺だけが生きている。

全て俺の責任だったのに」

俺は恐怖を感じていた。

けれど、そんなふうに恐怖を感じていても、鹿島先輩が言ったことは間違っていると考えることができた。

怒りが理性を支えていた。

この怒りがなければきっと俺は泣き崩れていただろう。

全て鹿島先輩の責任?

「何言ってるんスか?」

そんなわけないじゃないか

「鹿島先輩は、悪くありません。
悪いのは、その大バカアメリカ兵です。
実際に鹿島先輩のお母さんと妹さんを……殺したのはアメリカ兵なんでしょう?」

「逆上させたのは俺だ」

「……鹿島先輩は…いい人すぎます。
だから、そのアメリカ兵のことまで庇おうとするんでしょう?
自分の責任だと、思おうとするんでしょう?」

「うるさい、黙れ!」

初めて聞く、鹿島先輩の荒っぽい声

「俺がガキの正義感に理性を任せたからいけなかったんだ!
ただのエゴで俺が動かなければ母も妹も生きていたんだ!」

生きていた?

生きているって…どういうこと?

息をしていること?

心臓が動いていること?

違うよね?

生きているっていうのはさ

ちゃんと人間らしい感情があるっていうことじゃないの?

「鹿島先輩はわかっていないかもですけど、女の人にとって強姦っていうのは感情を失うほど辛いことなんです。
鹿島先輩がお母さんを助けようとしなかったらお母さんは感情が死んでしまったかもしれません。
鹿島先輩がお母さんを助けようとしたからお母さんは生きていられたんです。
心を持ち続けていられたんです」

「……」

「鹿島先輩は悪くないんです」

もしも鹿島先輩みたいな行動をしてもらえたら、そのせいで死んでも、よかったと思えるだろう。

俺の主観だけど……

「絶対に悪くないんです」

「……本当に?」

俺は大きく頷く。

「……そうか」

鹿島先輩は微笑を浮かべる

悲しみや嘲笑を含まない微笑を

俺は息を吐きながら上を向いた

さっきまで木に引っかかっていた風船は、どこかに飛んでいってしまったのか、もうどこにもなかった。