伏せていた瞼を開けた時、目の前の景色は何も変わっていなかった。


当然だ。何も変わらない。詞織はここにいない。


あの日、詞織が呼吸を止める瞬間をすぐそばで見た。


来ないで、と詞織は言ったけれど、それだけは守れなかった。

体温が消えていく感覚が、まだこの手のひらに残っている。


響き渡った電子音は耳を痛いくらいに劈いて、まるで詞織がもうこの世にいない事を俺に知らしめているようだった。


いつまで病室にいたのかは覚えていない、ただ気が付くと彰さんの車の助手席に座っていて、ある話を聞いた。


詞織から一度だけ聞いた事のあった、詞織の母親の話。

若くして亡くなった彼女と彰さんは結婚はしていなかったという。


同じ墓に入れる事は出来ないから、一緒に墓地を選んでくれないかと言われた時、ひどく取り乱した事を覚えている。


家族でもない俺がなんで、と思ったけれど、彰さんには詞織以外の親族がいないと聞いていたから、迷いながらも了承をした。

俺を送り届けた後、病院へ戻る彰さんの横顔はひどく憔悴していたように見えた。


まるで生活感をなくした詞織の家に何度も通って、彰さんと2人で何箇所も下見に回った。

迷いに迷って、選んだこの場所。


春になれば桜が咲き乱れて、その奥には秋に浮かび上がるコスモス畑がある。


俺がひまわりの咲く場所ではなく、ここを選んだ理由をやっと思い出した。


忘れてはいなかったけれど、記憶の奥底に埋めていた大事な過去。


『朔がつかんでくれるなら、わたしは桜になりたいな』


そうだ。詞織と満開の桜を見に行く為に病室を抜け出した日。


舞い落ちる桜の花びらをつかもうと必死になる詞織の横で、俺は難なく1枚の桜を手のひらに乗せた。


詞織は笑ったんだ。


― ―朔がつかんでくれるなら、わたしは桜になりたい。


俺もそうだと言いたかったけれど、言えなかった。


詞織が桜なら、俺はいつもきみに手を伸ばしてつかむから。

だから、いかないで、と。