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 バレンタインイブ。職場には適当にチョコを配り終え、いつもより少し早めに帰路につく。健人のバイトは日曜からのシフトになっていた。つまり金曜、土曜は休みだ。綾乃にはキッチンを使える暇はない。

「…だめだ、どう足掻いてもバレる。既製品の方が良かった…?」

 恥ずかしさの中で身悶えしながら散々悩んだ挙句、作るということを選択してしまった綾乃は材料を一通り買いそろえてしまっていた。このままでは材料が無駄になる。

(…何とかして健人を外に追い出すか…。)

 ガチャリと鍵を開けると、いつもはすぐ飛んでくる声が聞こえない。

「健人ー?…寝てる?」
「…おかえり。」
「うわぁ!な、なに?どうしたのあんた。」
「どうもしないよ?今日もお疲れさま。ご飯できてるよ。」
「…そんな顔と声でどうもしないとかナメられたもんだわ。言いたくないことなら無理に聞かないけど、言えることなら聞くよ?」
「…じゃあ。」
「うん。」
「ぎゅってしてくれたら話す。」
「は、…い?」

 これは一体突然どうしたというのだろう。ただの甘えたがりなときはもっと明るいし、元気だ。今日はそれとはかなり違う。
 しかし、話すと言っているのだから、ここは素直に抱きしめてあげるべきだろう。そう思って、綾乃はそっと健人の背中に腕を回した。圧倒的に健人の方から抱きしめてくることが多いため、これはこれで恥ずかしい。

「…どうしたの?珍しいね。」
「綾乃ちゃん、バレンタインのチョコ、誰かに渡した?」
「っ…え、な、なんで…?」
「渡したんだ…。」
「職場には配るのがしきたりなんだよ…そこに愛も情もないけどね。カネだけ。」
「俺のは、ある?」

 今聞かれたくない質問ナンバーワンだ。正確に言えば、ない。

「え、っと…。」
「綾乃ちゃん、忙しかったもんね。…ごめん、我儘言った。」
「あー待って待って待って!違うの。今はないんだけど、明日にはある!」
「え?」