「ねぇ。」
「なに?」
「そろそろコート脱ぎたい。それにいい匂いがする。今日、もしかしてシチュー?」
「本当に鼻がいいね。綾乃ちゃんの方こそ犬みたいじゃない?」
「どっこが!それにあたしの鼻なんて、健人の料理だけにしかきかないじゃん!」
「…それもそうだね。」

 綾乃の返答にまたしても健人の頬は緩む。

「…今日は待ちくたびれたよ。本当に。」
「抱きしめたくて?」
「うん!」
「…さすがにそこまで真っ直ぐに返されると照れる。」

 今度は綾乃の頬が染まった。照れてくれるだろうと思って、からかうつもりで言ったはずなのにここまで真っ直ぐに愛情を向けられると一瞬面食らってしまう。

「照れた綾乃ちゃんも可愛い。」
「健人の可愛い、大好きはおはよう、おやすみと同じレベル。」
「ひどい!全部本気なのに!」
「知ってるけど。」

 家族のことを思い出して、少しセンチメンタルな気分だったのかもしれないと綾乃は思う。本人は無自覚かもしれないが、それでもきっと思い出して少し切なくなる日もあるのだろう。自分が家族の穴埋めをできるほど、大きい存在だと言うつもりはない。それでも、意識しないところで温もりがほしいとき、温もりを分け与えることのできる位置にいたいと思う。
 健人のバイト先のオーナーは健人の遠い親戚なのだとオーナーから聞いた。両親を亡くした頃の健人は随分荒れていたようだ。(出会った頃から今までの全てを思い出しても、全く想像がつかない姿だけど)それまで両親の愛情を真っ直ぐに受け続け、素直に育ってきた健人は一瞬にしていなくなり、それをどうにか立ち直らせたのがオーナーだった(らしい)。

『綾乃ちゃん、健人と付き合うことにしたんだって?』
 そう聞いてきたオーナーはとても嬉しそうだったのを思い出す。肯定すると、もっと顔をくしゃくしゃにして微笑んだ。
『あの子に大切な人ができてよかったよ、本当に。それが綾乃ちゃんで、…良かった。』

「あーやーのーちゃん?」
「あ、ごめん。ぼーっとしてた。」
「ぼーっとしてるなんて珍しいね。綾乃ちゃんの方こそ何かあった?」
「…ううん。健人が思い出したって言ったから、あたしも色々思い出してみただけ。」
「あ、俺の変なところばっかり思い出したでしょ、その顔。」
「はぁ?そんなわけないでしょ!…そうじゃなくて。」
「…?」

 首を傾げる21歳男性。それがこんなに可愛くて大丈夫なのだろうか。世の中、社会が不安になる。

「…とりあえず、ご飯が食べたい。」
「うん!」