どのくらい止まっていたのだろう。随分長かった気もするし、一瞬だったようにも感じる。それが早いか遅いか、気付くと地球の重力を逆走していた。


一度バーを出た辻は再び店の中に入り、彼女の前まで歩るくと話しかけていた。

「元気?」

「うん」その小さい声の主は無表情で、にべもない。

「全然、元気そうじゃないよ」

冗談めいて言うと、彼女の表情が和らぎ口元が少し緩んだ。


「僕の名はユー、きみは?」

「スレ☆≧@♂」

「えっ? スレ何?」

よく聞き取れなかった辻は、聞き返す。

「スレイニアン」眠たそうに答える。

「スレイニアン?」

「うん」

「ニアンって呼んでいい?」

「うん」

ニアンは、ほとんど英語を話すことができなかった。

頭の血流をフル回転させてた辻は、今まで納戸(なんど)にしまいぱっなしの拙(つたな)いカンボジア語で、言葉と言葉を結んだ。


彼女の印象は、忘れられた高嶺(たかね)の岩場に、濃いピンクの可憐な小花を絨毯(じゅうたん)のように咲かせるイブキジャコウソウといった感じだった。 


長針に追い立てられるよう少し世間話をした後、ほとんど唐突に、「今日、これからポイペットのカジノに三日間行くんだけど・・・、一緒に行かない?」と明るく伺う。


彼女は一瞬考えたが、思いのほか早く、コクリと頷いた。


こうして、辻は、ずっと話したくても話せなかった彼女と小旅行に立つことになった。


あまりに急な展開に戸惑ったが、それ以上に嬉しい気持ちで一杯だった。


すっかり明るくなったバス停近くの屋台で一緒に朝食を済ませ、旅の支度のため彼女をいったん家に帰す。


その間、バスの予約を8時に変更し、二枚のバスチケット片手に現地の人でごった返すバス停で一人、彼女を待つ。


周りにたくさんの待ち客がいたが、バスの出発1分前になっても彼女は現れなかった。