辻は、部屋の中央の何もない空間に視線を置く。

そこには、いつも周りに存在する社会的常識や他人の人生と比較して、自分の幸せを測ってきた自分がいた。


それが、彼の言葉を聞いた途端、長い間つかえていた心のわだかまりが、スーっと解けて無くなっていくかのように感じた。


「佐川さん、結婚する気はないんですか?」


「考えてないね。結婚って束縛されるでしょ。俺には合わないよ。独身は自由だけど、やらなきゃいけないことがたくさんあるから、それはそれで大変なんだけどね・・・」


辻には、趣味や人生を楽しむことがたくさんあり、それらをこなして行くのが大変なんだと聞こえた気がした。


「あれ! そう言えば、いつ帰国するって言ってたっけ?」


「明日の深夜の便で帰国します」


「あっそう、帰りたくないでしょう」


「そうですね。でもいつかは帰国するんだし。早いか遅いかの違いですよ」


辻は三週間前、イケメンの太一を見送りにドミのみんなでバス停まで行った。


その時、『帰国する気がしないっすよ~』と言った太一に、『いつかは帰国するんだし。早いか遅いかの違いだよ』と諭(さと)すように言ったヒロシと同じ言葉を繰り返していた。


こうして辻は、お世話になったドミの仲間に挨拶し、2007年9月1日、バンコクの空港を発つ。


一ヵ月のバンコク滞在で仕上げた小説は、構想全体の半分程度であった。





成田空港から自宅へ向かう電車の中、久しぶりに見る日本の風景に違和感を覚えていた。


緑の水田、家に使われている灰色の屋根瓦、遠くに見える深緑の小高い山、何でもない日本の景色がとても新鮮に見えた。


それらすべて、東南アジアでは見たことがない風景だった。





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