冷たい舌

 



 十年前のあの日、潔斎中だというのに、淵へ抜け出した透子は、和尚と顔を合わせてしまい、驚いて足を滑らせ、淵に落ちた。

 それを助けてくれた和尚がふいに呼びかけた。

 透子― と。

 それは今まで聞いたことがないほど、やさしい声だった。

 今まで、誰もそんな呼び方で、自分を呼んだことなどなかった。

 思わず顔を上げた透子に、和尚はそっと口づけた。

 透子は何が起こったかわからずに、目を見開いたまま和尚を見ていた。

 ちょうど夕陽が彼の後ろから当たって、鼻筋の通った顔に陰影をつけていた。

 それを見ながら透子は、ただ、神様みたいにきれいだと思っていた。

 やがて、離れた和尚は、照れ臭そうに、ぼそりと言った。

『お前……、目くらい閉じろよ』

『だ、だって、彩雲だよ、和尚』

 透子は慌てて、和尚の後ろの空を指さす。

 本当だった。

 彩雲? と眉をひそめ、和尚が振り返る。

 彩雲は吉兆の前触れと言われている。

 だが、初めてのキスのあと、そんな呑気なことを言い出す透子に、こちらに向き直った和尚は引きつった顔で笑い、こう言った。

『めでたいのは、てめえの頭だ……』

 グラデーションの空に優美に棚引いていたそれが本当に彩雲だったのか、透子にはわからない。

 だが、そう信じたかったのだ。