昼を過ぎても隣の家に人が帰ってくる気配はなく、焦りが募る。
すっかり打ち解けたおじいちゃんと大宮くんは親しげに将棋を指していて、なんて呑気なんだと文句を言いたくなった。
時計の短針が真下に傾いていく。
17時を過ぎた頃、居ても立ってもいられなくなって立ち上がると、寝転んでスマホを見ていた大宮くんが顔を上げる。
「帰ってきた?」
物音や人の声が聞こえたわけでもないし、誰も帰ってきていない。
「海に行ってくる」
「海? なんで」
「いてほしいって、思うから」
夕方になると、合図もなく碧汰と海に行っていた。
本当はもう少し日が沈んだ頃だけれど、今日はそんな時間まではいられない。
ただ、ここで待っているだけでは会えない、そんな気がした。
「6時には戻れよ」
「わかった。行ってくる」
スマホだけを持って、家を出る。
まだ真上にある太陽から逃れられる場所を探すように、ぬるい風に背中を押されて海へと向かう。
見覚えのある景色と、砂浜へ下りる階段が見えた。
視界が開けて、潮の濃い香りが鼻の奥に渦を巻く。
むせそうなほどの香りの中を走り、護岸に手をついて砂浜を見下ろしたとき。
海面が眩いほどに輝いて、逆光ではっきりとは見えないけれど、確かにそこに人影を見つけた。
確信なんてない。
今、どんな姿をしているのかも知らない。
でも、きっと、そうだ。
「碧汰!」
大声で呼び、砂浜へと飛び降りる。
砂に足が埋もれて挫けそうになりながら、一心に波打ち際へと走る。
「…………海琴?」
振り向いた人影が色を纏い、輪郭が浮かぶ。
わたしを見つけると、目を見張って、小さく呟いた。
その口から出た声が、わたしの名前だったから。
ほっとしたら足の力が抜けて、碧汰にたどり着く前に砂の上に座り込む。
碧汰は慌てたようにわたしに駆け寄って、戸惑いながら手を差し出してくれた。
わたしはその手を取らずに、碧汰を見上げる。
「……ほんとうに? 海琴、なんだよな」
「そう、た」
碧汰と呼んで、海琴と呼ばれることが、こんなに嬉しいなんて。
あの日、当たり前が崩れたあのときから、ずっとほしくてたまらなかった瞬間が今、ここにある。
5年前にはかけていなかった眼鏡をずらして、碧汰はわたしの目の前まで手を伸ばしてくれた。
その手を今度は掴んで、立ち上がる。
手の大きさの違いに驚いて、それから背丈も頭ひとつ分の差があることに思わず上から下まで見回してしまう。
制服を着ていなければ、もう少し年上にも見えたかもしれない。
「碧汰、学校に行ってたの?」
碧汰は制服を着ていた。
「そう、補習と雑用で」
「おじいちゃんが朝から出かけてるっていうから、碧汰もいないのかと思った。おばさんたちも帰ってこないし」
補習という言葉が気になるけれど、どのみち家で待っていたら会えなかったということだ。
ここにいてくれてよかったと、ここに来てよかったと心から思う。
「母さんたちの用事には、おれはついて行かないよ」
「どんな用事だったの?」
「弟の検診」
「それは碧汰は関係ないね……って、弟?」
碧汰に兄弟はいなかったはず。
驚いていると、碧汰は砂の上に文字を書く。
【陽汰】と書かれた文字を呆然と見下ろしていると、碧汰はスマホに撮った写真をいくつか見せてくれる。
「去年の秋に生まれて、今はこんな」
「かわいい。碧汰に似てるね」
「本当、そっくりなんだよな。いたら会わせたかった。母さんも喜んだだろうし」
「おばさんとおじさんは元気?」
「元気元気。何にも変わってない」
聞きたかったことを尋ねると、すぐに答えてくれる。
5年前、何も言えずに別れたことが、なかったことになったように思えるほど、普通に言葉を交わす。
「その眼鏡は?」
カラーレンズの入った眼鏡を見て言うと、碧汰は目元に手を添えて言葉を濁す。
「これは……日が出てる時間は眩しくて、外にいる時はつけてるんだよ」
眼鏡をつけ直して、碧汰は空を振り仰いだ。
これから日が沈むとは思えないほどに青い空を見上げた碧汰は、レンズの向こうで瞼を閉じていた。



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