淡々と、壮悟くんは言った。肩で大きく呼吸をする。
 何だか様子がおかしい。息が切れている。壮悟くんは歩いてきただけ。ずっと小走りしていたあたしとは違うのに。
「壮悟くん、大丈夫ですか?」
 顔色が蒼い。荒れた唇が紫色になっている。
 壮悟くんは階段の手すりをつかんだ。そうしながらも、足を止めない。しゃべるのも止めない。
「白血病の治療法、知ってる? 二十世紀の終わりごろ、つまり六十年も七十年も前から、有効だって言われてるやつ。抗がん剤や放射線で白血病細胞を殺して……生きてる血球や細胞もろともだから、副作用がひどくて」
 壮悟くんは肩で息をして、足を止めた。
 一階まで戻ってきたところだ。廊下は、がらんとしている。立ち並ぶ研究室のドアは閉ざされていた。壮悟くんは壁に寄りかかって、荒い息をした。
「……くそっ、このくらいで……」
「具合が悪いんですか?」
「ただの貧血。ヤベエ、頭痛ぇ」
「そ、そんな、どうしましょう?」
「騒ぐなよ。あんたの声、頭に響く。休めば収まる。こんなの……ちくしょう。一度は治ったのに」
 壮悟くんは、壁に寄りかかって体を支えたまま、眉間にしわを作って目を閉じた。男の子なのに、まつげが長い。
「一度は治ったって、どういうことですか?」
「そのまんまだよ。おれ、今回のは、再発なんだ」
「再発……」
 壮悟くんは唇を噛んだ。荒れていて痛そうなのに、きつく噛んだ。
「何ベラベラ話してんだか。こんな無関係なやつ相手に」
 無関係でも何でも、聞かせてほしいと思った。興味とか好奇心とか、そんなんじゃなくて。
 皮肉の理由、意地悪の理由、本当の心を隠すような態度の理由。話すことで解き放てるのなら、壮悟くんの苦しみがやわらぐのなら、あたしはどんな話でも聞きたい、聞かせてほしいと思った。
 目を閉じた壮悟くんは低い声で言った。
「白血病の、おれが受けたタイプの治療には二段階あってさ。抗がん剤治療の後、骨髄移植《こつずいいしょく》をする。抗がん剤は、がん細胞もろとも、普通の細胞もまとめてダメにしちゃうから」
「別の人から、正常な造血幹細胞を分けてもらうんですよね。それが骨髄移植」
「ああ。でも、移植は簡単なことじゃない。新しい骨髄を、体が外敵だと認めてしまったら、体は激しいアレルギー反応を起こす。下手すりゃ死ぬらしい」
「あたしにも、そういう経験ありますよ。うっかり口に入れてしまったものがアレルゲンを含んでいて、脳細胞が破壊されそうなくらいの高熱が出たり、自力で呼吸ができなくなったり、何日間も意識を失ったりして」
 人間の体はとても臆病で繊細だと思う。怖がりだからこそ、攻撃的でもある。排除しなければならないモノだと認識したら、自分自身まで殺しそうなほどの攻撃をするんだ。それがアレルギー反応。
 壮悟くんは、大きな手で額を覆った。
「十歳のころ、抗がん剤治療が一段落してから一年以上、何度も入院しながら、骨髄移植のチャンスを待った。骨髄の型が家族とも親戚とも合わなくて、骨髄バンクを当たってもドナーが見付からなくて」
「移植、できたんですか?」
「できた。やっとできたと思ったのに、二年とたたずに再発しやがった。絶望的だね。なあ、あんたは金持ちの娘なんだろ?」
 壮悟くんが、うっすらと目を開けた。その顔を見つめていたあたしはドキッとする。
「お金、ですか?」
「入院って、金かかるよな。うちの場合、親が親戚じゅうに頭下げて借金したんだ。親も親戚も何も言わないけど、たぶんまだ全然、返せてない。なのに、再発した。もういっそのこと死んで保険金もらったほうがいいんじゃねぇかって、おれ、本気で思った」
「そ、そんな」
「ポロっと妹にそんなこと言ったら、めちゃくちゃキレて泣いて。でも、それじゃどうすんだよって八方ふさがりだったとき、話が舞い込んだ。響告大学附属病院での臨床試験。風坂麗のマウスにならないかって話」
 壮悟くんが、ふぅっと息をつく。体が小さく震えた。もしかしたら、熱が上がり始めているのかもしれない。
「風坂麗先生って、人工的な万能細胞を使った治療の専門家ですよね?」
「ああ。風坂麗の技術があれば、他人から骨髄を移植してもらう必要がなくなる。おれの細胞を使って、人工的に、おれ自身の健康な造血幹細胞を作れるから」
「そっか。他人の骨髄を使わないなら、ドナーを待つ必要も、アレルギー反応を心配する必要もなくなるんですね」
「しかも、今回のはまだ実験段階。データを全部提供する代わりに、費用は無料。造血幹細胞を移植する前段階の抗がん剤治療も、かなり安くで受けられる。家族はこの話に飛び付いた」
 壮悟くんが急に、うっ、と苦しげな息をした。きつく眉をひそめたと思うと、あたしを見つめるまなざしが、ふと焦点を失う。
 一瞬、完全に壮悟くんの体は力を失った。
「きゃっ」
 壮悟くんがあたしのほうへ倒れかかってきた。抱きすくめられる。重みがかかる。タタッ、と乱れた足音が廊下に反響した。壮悟くんはどうにか踏みとどまっている。
 抱きすくめられている。
 荒い呼吸が耳をかすめる。ささやく声が頬に触れた。
「……悪ぃ。今、マジで余裕ない。支えがなきゃ、立って、られない……」
 熱い。壮悟くんの体、すごく熱い。
 鼓動の音がする。苦しいぐらいの心拍数だ。あたしの鼓動なのか、壮悟くんの鼓動なのか、混じってしまってわからない。
 顔と頭に血が集まる。のどがカラカラになる。
「あ、の……」
 舌が回らない。声が出ない。
「その先、行ったとこ、ドアがある……庭に、出られるから、あっちへ。芝生で横になれるから」
「わ、わかりました。歩けます?」
 壮悟くんはかすかにうなずいて、あたしを支えにしながら、ゆっくり歩き出した。