私の三十センチメートル



「どんな子だったか後で教えて」

兄に背を向けて言う。「わかったよ」と言いながら兄はテーブルの方に歩いていってリモコンを手に取り、テレビを点けていた。

私は二階の自室に上がり、勉強机の椅子に座った。私の部屋の窓からは、斜め向かいのサト君の家の玄関が見える。レースのカーテン越しに、私はじっと、それを見つめ続けた。

一階で洗濯機の回る音がする。リビングで兄と父が会話するような声も聞こえた。どうせいつもの通り野球の話だろう。なにがそんなに面白いのか私にはさっぱり分からない。犬の散歩をするひとが何人かサト君の家の前を通って、十二時少し前に母が私の部屋をノックした。「お昼ご飯は?」「さっきトースト食べたばかりだからいらない」。そしてそれから三十分ほど経った頃、駅のある方の角を曲がって歩いてくる、若い男女の姿が見えた。

サト君の隣を歩く彼女は黒く長い髪を左の耳の下で結って、上品な服を着ていた。小柄で肌の色が白く、顔の輪郭は丸い。二階の窓から見ただけで判断するのは少し暴力的かもしれないけれど、私が見た限りでは美人でも不細工でもない、地味な女の子だった。

あんな子よりも私のほうがずっと。そんな思いがよぎらなかったわけではない。でも私はすっかりすべてが分かってしまった。彼女の隣で恥ずかしそうに、そして幸せそうに笑う、彼の姿で。



物心の付いた頃から側に居て、ずっと見ていた。
彼に一番近かったのは、間違いなく私だった。


机の上は、いつの間にか水溜りになっていた。サト君たちはもうとっくに家の中に姿を消している。私はただ、涙を流していた。体のすべてに力を入れなくても、止めどなくそれは溢れ、零れた。十年間の思いは、直径十センチの水溜りになって、でも、それだけだった。世界は何も変わらなくて、私はまだサト君がすきで、私の心を映すように雨が降ったりもしなくて、ただ静かに、ただ涙の落ちる音だけ携えて、私の恋は、まるで眠るように、その日、死んだ。