お父さんは無言でお母さんの手から『離婚届』と書かれたその紙を受け取って、ペンを握って動かす。
ずっと前から知っていたとでもいうように、静かに着々と紙が埋まっていく。
そしてその紙がお母さんの手に戻ると、お母さんも静かにリビングの椅子を立ち上がった。
そんな様子を俺はぼーっと眺める。
────なんだこの気持ち。
悲しいはずなのにな、悲しくねぇ。
なんも思わねぇんだ。
だってそうだろ?
他の人を愛しちゃったってなんだよ。
何してんだよ。
意味わかんねぇよ。
──俺のこともお父さんのことも、その程度にしか愛してなかったってことかよ…?
別に悲しくなんかない。
ただ俺には、まだ愛やら恋やらはピンとこなくて。
お母さんに失望することしかできなかった。
荷物を手に持って、玄関に行くお母さんを無表情で見つめる。
お母さんは玄関を出る前に、振り向いて一言。
『バイバイ』
寂しそうに笑った綺麗な顔が、家を出るとき最後に見えた見慣れた白のワンピースの裾が、一生消えないんじゃないかってくらい頭に強く刻み込まれて。
悲しくはないはずなのに。
片方の目から一粒だけ涙がこぼれた。



