『好き』と鳴くから首輪をちょうだい



目覚めたのはスマホのアラーム音ではなく、鼻を擽る美味しそうな香りのせいだった。


「ん……」


ゆっくりと瞼を持ち上げると、見慣れない天井が広がっている。
咄嗟に、自分がどこにいるのか分からなくなる。


「ええっと……、ああ、そうだ」


数回瞬きを繰り返す間に、昨夜のことを思いだす。
自分がどこにいるのか理解した私は、体を起こして枕元に転がしていたスマホを取り上げた。
誰からの着信も、連絡もない画面を見ながらため息をつく。達也への何度もの発信履歴があるのみだ。


「やっぱり、昨日のことは事実、かあ」 


分かってはいるけれど、辛い。起きたって、何にも好転していない私の現実。
私は彼氏に逃げられた、家なし女のままってわけだ。

すごく辛い。
全部を放って、別の世界へ逃げ出してしまいたい。
異世界からの招待状が舞い込んできたら、二つ返事でOKしちゃいたい。

だけど、そんなことできるわけも、くるわけもなくて、私は今日もこの世界でいつも通りに働いて来なくちゃいけない。

ご飯を食べるにも、新しい部屋を借りるにも、お金がいるのだ。

そう、家電だって家具だって買い揃えなくちゃ。
私のお気に入りだったエスプレッソメーカーも、革のソファもなくなっていたし。
そういえば、アクセサリーボックスは本当になくなってるんだろうか。
あれには初任給の記念として自分に買った、ダイヤのピアスが入ってるのに……。

眠りによって束の間忘れることのできた現状が、容赦なく襲いかかってくる。
朝っぱらから「うう」と泣き咽びそうになった私だったが、そんなことは許さないと言うように起床時間を告げるアラームが鳴った。
現実はどこまでも無常すぎる。


「はい、仕事してきます」


のそのそと起き上って、身支度を整えるべく洗面所へと向かった。


「うあ。ひっど……」


鏡の中に、ぼさぼさカリフラワー頭の腫れぼったい目をした女がいた。


「これはまた、ぶっさいくだわ」


あまりの不細工さ加減に笑えてくる。
自虐の笑い声を上げながら、私は顔を洗って歯を磨いた。


「あんた、誰」


シャコシャコと歯ブラシを動かしていると、背後から急に声を掛けられた。
その声は、眞人さんのものではない。
驚いて振り返ると、そこには綺麗な顔をした男の子が立っていた。

二十七歳の私より随分若くみえるから、ハタチ前後だろう。

背が高くて、モデルさんのようにスタイルが良い。
その体の上には色白の小さな顔がある。
寝癖がついているけれどサラサラの栗色の髪に、大きなアーモンド形の瞳は榛色。
ピンク色の唇は少し薄い。顔も充分、モデルさんとして通用する。ていうかモデルさんなんだろうか。

寝起きなのか、スウェットの上下をだらしなく着た(しかしそれがどこかかっこいい。イケメンって何でも着こなせる生き物なのだろう)彼は、私を見てぎょっとしたような顔をした。


「は、はお?」


誰? と首を傾げる私に、綺麗な男の子は形の良い眉をぎゅっと寄せて声を荒げた。


「はあ⁉ 何で女なんかがここにいるの⁉」

「え、ええと?」

「ていうかそれ眞人の服! なんで? なんで女なんかがここにいて眞人の服着ちゃってる訳⁉」


ぎゃー! と男の子は叫んで、踵を返した。
「眞人! 眞人ー!」と声を張り上げながら、店舗の方へ走っていく。


「だ、だれ?」


ここの住人? でも、確か眞人さんは昨夜「飼い犬しかいない」って言ってたよね。


「は、はて?」


分からない。
だけど彼にとって、私がここにいることはとてつもなく不愉快なのだということは分かった。
私を泊めたことで、眞人さんは彼に酷く怒られるのかもしれないということも。


「説明、してこなくちゃ」


私が眞人さんのご好意で一泊させてもらっただけだと言わなくちゃ。
慌てて身支度をして、私は男の子の消えた厨房に向かったのだった。