『好き』と鳴くから首輪をちょうだい

「はい、わかりました。まだまだ未熟な点が多くて、お恥ずかしい限りです」

「いえいえ、そんなことないわ。老婆心からの言葉と思ってちょうだい。でも、もっとちゃんと仕込んでから送り出したかったとは、思うわ。あの子のせいで、あなたの道を中途半端に止めてしまったこと、今でも申し訳なく思っているの」

「女将、さん……」

「さて、今日ここへ来たのは、小紅を連れ帰るだけが目的じゃないのよ。私個人も、用件があったの」


小紅さんのお母さんは、ハンドバッグから一通の便箋を取り出した。


「長く『華蔵』の板場を仕切ってくれていた榊さんが、退職することになりました。田舎に戻って、奥様と二人で小さなお店を始めるんですって。もう、後進を育てることはできないだろうと言っていました」

「榊さんが、ですか……⁉」

「ええ。奥様とのんびり料理を作っていきたいというのを止められないでしょう? 『華蔵』にとっては大きな痛手だけれど、仕方ないわ」


哀しそうに笑って、お母さんは便箋を眞人さんに差し出した。


「それでね、お店の立ち上がりは色々忙しいだろうから男手が欲しいと榊さんが言っているの。ひとり、料理の心得のある人を探してくれないかって頼まれたんだけど、私が思いつくのはひとりしかいなかった。これが、榊さんの連絡先よ。移住先の住所も書いてある」

「え……? それ、って」


言葉の出ない眞人さんに、小紅さんのお母さんがにこりとほほ笑んだ。


「ああ、まどろっこしい言い方はやめましょうね。はっきり言うわ。榊さんの唯一の心残りが、四宮さん、あなたなのよ。それで、あなたさえよかったら、、もう一度自分の下で学んでみない? このお店のこともあるだろうから、無理強いはしない。だけど、榊さんの元で成長できる最後のチャンスだと思うのよ。よく、考えて頂戴」


机の上に便箋を置き、彼女はもう一度私たち三人に頭を下げた。


「二度と、小紅をここへはやりません。御不快にさせて申し訳ありませんでした。では、失礼します」


優雅に会釈をして、彼女は店を出て行った。
訪問者のいなくなった店内で、私たち三人は言葉もなく立ち尽くしていたのだった。


「……ちょっと、出てくる」


最初に言葉を発したのは、渡された便箋をじっと見つめていた眞人さんだった。
テーブルに便箋を置き、ふらりと店を出て行く。私も梅之介も、その背中に声はかけられなかった。