『好き』と鳴くから首輪をちょうだい

「私と戻れば、華蔵の板長になれるのよ? こんな汚い店でひとりでいるなんて、惨めじゃない。ねえ、寂しいでしょう? 」

「もう、止めてくれ、小紅。俺はもう……」


眞人さんの声が、掠れている。酷く疲れ切った声だ。


「帰って下さい!」


気付けば、彼女を眞人さんから引き離してそう叫んでいた。


「な、何⁉」


綺麗な顔の眉間にしわが刻まれて、私を見る。


「帰って下さい! 急に現れたあなたに、眞人さんを苦しませていい権利なんてない!」


出入口の方まで彼女を押していく。


「帰って下さい! 帰って!

「ちょっと止めて! ねえ眞人、この人どうにかして!」

「ハーイ、お帰りはこちらでございます」


梅之介が引き戸を開け、彼女の手を取った。
にこにこと営業スマイルを浮かべて、店の外まで押し出す。


「もう開店前なんで、お帰り下さいねー。正直邪魔なんで」

「止めてよ! 私は眞人に話が!」

「眞人は話なんてないそうです。わかるでしょ?」

「従業員の癖に偉そうなこと言わないで! どいてちょうだい」


出入口に立ちはだかる梅之介を押し、どうにか体を滑り込ませようとする小紅さん。
梅之介の加勢に行こうとしたその時。


「……空気読んでいい加減帰れよ、ブス」


梅之介の声のトーンがぐんと下がった。


「は⁉」

「は、じゃねえよ、ブス。二度とこの店の敷居跨ぐな」


唖然とする彼女の一瞬の隙をついて、梅之介はぴしゃりと扉を閉めた。鍵までかける。


「ちょっと! 開けなさいよ!」

「開けるかっての、バーカ」
 
がしゃがしゃと彼女が扉を叩く。
しかし、梅之介が「警察呼んでやろうか」と言うと止んだ。

「また来るから!」というヒステリックな声がして、立ち去る気配がした。


「何だ、あの女。おい、眞人……」


振り返った梅之介が口を噤む。私も、何も言えなかった。
ずるずると椅子に座りこんだ眞人さんは、両手で頭を抱え込むようにして俯いていた。
彼女の登場が眞人さんにとって酷いダメージを受けるものだったのだと分かる。


「ふたりとも……助かった。すまない……」

「そんなこと、いいんだよ。だけどあの女、何なんだ。あの傲慢さ、ちょっとナイよ」


呆れた口調の梅之介に、眞人さんが深いため息をつく。


「あとで、説明する。とりあえず、店を開ける支度をしよう」


時計を見上げると、もう僅かにしか時間が残されていない。


「分かった。シロ、やるぞ」


梅之介が私の方へやって来て肩をポンと叩く。
耳元に口を寄せて、「そんな顔すんな。眞人にバレるぞ」と言った。


「う、ん……」


分かってる。
だけど、色んなことが一気に起こりすぎて、一気に知りすぎて、心が乱れてしまう。
こんな状況で平静を保っていろって、難しいオーダーだよ。

だけど、私よりもショックを受けているのは明らかに眞人さんで、だからこそ私が狼狽えていちゃいけないと思う。
どうにかこうにか、口角を持ち上げて笑ってみせた。


「時間ないし、急がないとね。ね、眞人さん」

「……ああ」

偉いぞ、と小さな声で言った梅之介が、私の頭を撫でて脇を通り過ぎていく。

梅之介の馬鹿。
こういうときは、いつもの毒舌の出番でしょうよ。
ちょっとの優しさが、泣きそうにさせるんだからね。
だけど私は唇をぎゅっと噛みしめて、笑顔を作った。

その晩の小料理屋『四宮』の厨房はいつもより遥かに活気がなかった。