「お客さん……、お客さん……」



遠い意識の中で、誰かに呼ばれている気がする。



「お客さん。」



今度ははっきりと聞こえる。



「お客さ、」



バッ、と身を起こすと、困ったような顔をしたバーテンダーが私を覗き込んでいた。



「大丈夫ですか?ご気分はどうですか?」



私の前に、コップの水を差し出してくれる。

私はとりあえずその水を一口飲んで、自分がここにいるわけを思い出そうとした。


そうだ。

私は、高梨さんに会いに来たんだ。

ライブは、終わったんだっけ……。



「あっ、」


「どうかなさいましたか?」



私は、舞台に目を遣る。

そこにはもう、彼がいるはずもない―――



「声、掛けたかったのに。」



一か月アルバイトをして。

やっとここに来られた。

彼の生演奏を聴くという目的は確かに果たせたけれど、もっと大事なこと。

彼に話しかけるということをせずに、私は……。



「お客さん、」



泣きそうな私に、バーテンダーは優しい目を向けた。



「もしかして、あちらの方ですか?」



彼が指差す方向を見て、私は息を呑んだ。

離れた席で、一人でグラスを傾ける、その人は―――



「高梨さん。」



私の声が届いたのだろうか。

彼はふと顔を上げた。

ばっちり目が合って、私は赤面する。



「違ってたらすみません。もしかして、宮迫さん?」



先に口を開いたのは彼だった。

私は、金魚のように口をパクパクさせて、慌てて頷いた。

すると、彼はふっと口元に笑みを浮かべた。

一歳しか違わないのに、どうしてこんなに大人な顔で笑えるんだろう、と思う。



「始めまして。……な気はしないね。高梨春次郎です。」


「あっ、えと、……宮迫……す、みれ、です。」



緊張して、途切れ途切れになってしまった。

そんな私をばかにするでもなく、高梨さんはそっと席を移動して、私の隣にやってきた。



「あの、高梨さん。」


「春次郎でいいよ。」


「え、……春次郎さん。」


「はい。」


「か、……かっこよかったです。」


「ふっ、ありがとう。」



ありきたりな感想しか言えない自分が悲しい。

本当は、もっと伝えたいことがたくさんあるのに。

言葉にして伝えられないけれど、彼の演奏にこんなに感動しているのに―――



「すみれ、って呼んでいい?」


「はい!」



いいんですか?と訊きたくなってしまう。

彼の声ですみれ、と呼ばれると、まるで自分の名前ではなくなってしまったかのような響きがする。



「わざわざ来てくれて、本当にありがとう。」


「いえ……。チケット、嬉しかったです。」


「それはよかった。」



高梨さんの、冬の夜の星空のような声が、『starlit night』によく似合う。

このお店は、高梨さんのためにあるみたいだ。



「本物の星空が、見たくなったね。」



私がお店の天井を見上げていたからだろうか。

高梨さんはそう言って、立ち上がった。



「見に行こうか。」



彼のすっとした背中が、信じられないくらい近くにある。

だから私は、もうその背中についていくことしか考えられなかった。

例え今、春次郎さんが、一緒に逃げようと言ったとしても。

私はすべてを投げ出して、この背中についていくだろうと思った。

そんな、破滅的な恋をするほどに、春次郎さんは魅力的だった―――



そして、私と彼は。

深夜のバーを抜け出して、暗い夜の街をどこまでも歩いていったんだ。