姫恋華〜ひめれんげ〜【改稿版】

 朝一旦止んだ雨が、また勢いを増して降り始めた。

 遠くで雷も鳴っている。

「うひょっ」

ゆらは稲光が見えるたびに素っ頓狂な声を出して首を縮めながら、隣を歩く宗明と足元を小走りしている鈴を交互に見た。

「悪天候ですねえ」

「嬉しそうに言わない」

「ほんまや」

 同時に冷たい言葉を返され、ゆらは「ははっ」と渇いた笑いを漏らした。

 宗明の顔は終始険しい。

 それはこの激しい雨と雷のせいだけではないはずだ。

 彼はどこまで知っているのか。

 ゆらは兄の部屋を辞してから、そればかりを考えていた。

「あっこやで」

 彼らは西の丸の隅っこにある古井戸にやって来た。

 大奥の裏の古井戸からここに繋がっていたらしいのだが、ゆらは気を失っていたのでそのことを知らない。

 そして、今また西の丸の古井戸に飛び込もうとしているのだ。

「あのう、ほんとに行くの?」

 そこは大奥の古井戸よりも深そうに見えた。

「底にぶつかる前に異界に通じる道に入ってまうから大丈夫や。そっから目的地までひとっ飛びやで」

 得意そうに言う鈴を恨めし気に見たゆらは、宗明がこめかみを押さえているのに気が付いた。

「三郎太。どうしたの?」

 まさか彼に限って体調が悪いということはあるまい。

「いえ。少々状況に追い付いていけてない自分がおりまして」

「え?」

「どうぞ、お気になさらず。さあ、さっさと井戸にでも何でも飛び込みましょう!」

 まるで自分を奮い立たせているかのようだった。

「例え猫がにゃあと鳴かなくたって、私は気にしませんしね!」

 いや、思い切り気にしてるし!

 ゆらは吹き出しそうになるのを必死に耐えた。

 生真面目で、人知を超えた不思議をあまり信じていない宗明のことだ。

 鈴が人の言葉を口にすることなど受け入れがたいことだろう。

 まして古井戸に飛び込むなんて。

 それでも文句ひとつ言わず付いて来てくれる彼に、ゆらは申し訳なく思った。

「ありがとう、三郎太」

「ゆらさまをおひとりで行かせたなんてことになったら、私は腹を切るしかなくなりますよ」

 宗明がそう言ってふっと漏らした微笑みは温かくゆらを包み込んだ。

「ほな、行っくで~」

 なんとなくしんみりしたゆらのお尻に鈴が再び体当たりした。

「うわっ、またこれ~?」

 古井戸に飛び込むというよりは落ちていく、ゆら。

 慌てて井戸を覗き込んだ宗明も、鈴によって強制的に突入。

 井戸には降りしきる雨が溜まっていてもおかしくはないのに、そこには一滴の水もなく、彼らは何もない暗黒へと吸い込まれていった。

 二人と一匹は、こうして騒がしいままに西の丸から姿を消した。

 と思う間もなく、一際大きな雷が江戸の街に轟いた。

この雷雲はこのあと一晩街の上空に留まり、青白い稲光が幾筋も夜空を切り裂いた。

それはまるで江戸の街を祓うつもりでもあるかのようだったと、布団を引き被って夜を明かした人々は噂し合ったと言う。