姫恋華〜ひめれんげ〜【改稿版】

「はっくしょん!」

 盛大なくしゃみをして鼻の下をこすりながらあやめを見れば、じとっとした目でこちらを見ていた。

「あのような所でお休みになっていれば、お風邪も召されましょう」

 その声は至って冷たい。

「だって~」

「だってではありません。雨降りの夜に周り縁で寝るなんて、姫さまのお気がしれませんわ」

 そう言われてしまえば反論の言葉も出ず、ゆらはむっつり押し黙った。

 そんなゆらの様子にあやめは気遣わしげな視線を向けたものの、それをあえて口にはせず、何度言ってもちっとも態度の改まらない、この姫君を懇々と諭し続けた。

 ゆらは温かい布にくるまりながら、それを聞くとはなく聞いていた。
頭の中にあったのは昨夜のこと。

 不思議な猫とした、深夜の大奥見廻りのことだった。

 鈴は母の部屋からどんな気配を感じたのか。

 それは恐らく悪いもので、だから母を部屋から動かせと言い置いたのだ。

 人の言葉を口にするだけでも十分不可思議であるのに、あの猫は妖(あやかし)の気配を感じることができるように見えた。

 いや、そう見えただけでなく、実際そうなのだろう。

 そしてその力をゆらにも求めているような言動だった。

(わたしがそんなこと出来るわけないよ)

 珍しく物思いに沈んでいる様子のゆらの事がさすがに気がかりになったのか、あやめはお小言を言うのをやめ、しばらく逡巡した後「本当に長雨で、気が滅入りますわね」と話題を変えた。

 それでも顔を上げないゆらに、あやめは膝を進めた。

「……お母上さまがご心配だったのですか」

「え?」

 ゆらは“母上”という言葉にようやく顔を上げた。

「う、うん。そうなんだ……」

「ならば、一言言い置いてくださればお供致しましたものを。お一人での夜歩きなど大奥の内とは言え危のうございますし、あのような場所で寝てしまわれることもありませんでしたでしょう」

「うん、ごめん……。ねえ、あやめ。かあさまはやっぱり市中のおじいさまの所にお帰りになった方がいいんじゃないかしら。わたし、父上に申し上げてみようと思うんだけれど」

 母である志乃の方は江戸市中の商家の娘だった。

 あやめは言葉なく首を横に振った。

「あやめ」

「恐らく、お匙のお医者さまがそう申し上げても、上さまは承服なさいませんわ。何度も何度も話し合われたことのようでございますもの」

「でも、父上も本当にかあさまの事を思っておいでなら、あんな部屋に閉じ込めたままにするよりも、きちんと静養してもらう方がいいに決まってる。きっと父上はかあさまの事がそんなに大切じゃないのよ」

「姫さま!」

 あやめは飛び上がった。将軍の事を批判するなんて実の娘にだって許されない。

 もし誰かが聞いていたら。

 あやめはきょろきょろ周りを見渡した。

 幸いにも風邪気味のゆらを気遣い人払いがされていて、部屋の近くに人はいないようだった。

「上さまには上さまのお考えがおありですのよ」

「かあさまは父上だけのかあさまじゃない。わたしにとっても大切なかあさまよ。それなのに心配するなって言うの?」

「姫さま……」