「ここや」
そこは見慣れた場所だった。
こちらにも小さな灯りがともっていて、淡い光が廊下まで漏れ出ていた。
けれど、この場所では珍しいことではなかった。将軍の寵愛篤い側室の容体にもしものことがあればすぐに対応する必要があるからだ。
「かあさまの部屋よ」
ゆらは戸惑いもあらわに鈴を見た。
「ここがどうかしたの?」
「あんた。なんも感じんの?ほんまに?」
「う、うん……。鈴ちゃんは何を感じてるの」
問い返すゆらに、鈴はまた溜め息をついた。
なんだかこの猫に溜め息ばかりつかれている気がする。
それは人としてどうなのか。
というような疑問を持たないところが、ゆらの長所であり短所であろう。
「旦さんの思い違いやないやろか」などと、鈴はぶつぶつと口の中で文句を並べている。
ちっとも話の見えないゆらはきょとんしていた。
「まあ、ええわ。どのみち旦さん来てからやないと動かれへんのやし。確認したいうことで、うちは帰るわ」
どうも、この鈴。己の思うままに動く性質らしい。
猫ゆえの奔放さであると言えなくもないが、付き合う方は大変なこともあるだろう。
だが、ゆらとて、自由度においてはあまり猫と大差はない。それに気付いていないのは本人だけだ。
宗明なら、「目的がない分、ゆらさまの方がひどいです」ときっぱり言ってのけるだろう。
「帰るって、鈴ちゃん、こんなとこまで来たのに帰るの?かあさまがどうかしたの?」
途端にゆらの胸に不安が広がった。
「うちらだけやったら、どうしようもないやろ。旦さん来るのを待つ言うてんねん」
「旦さん、東には来ないんじゃ」
「あんたが旦さん言うな。今は来れんいうだけで、あっちでの仕事が片付いたら来てくれはる。そん時は、あんた
もあんじょう働いてや」
「う、うん……」
いっそう訳が分からなくなっているゆらに、鈴はちょいちょいと手を曲げてみせると「ほなな」と言って縁から
庭へ飛び降りた。
と思う間もなくぴちゃんと水音がして、「ふにゃ」と猫が鳴いた。
「あか~ん。水たまりや~」
悲しそうな声がしたかと思うと、ひょっこり縁側の縁に鈴の顔が現れた。
前足をひとつプルプルと振って水しぶきを飛ばしている。
「だから、雨は嫌いやねん。あんな、ゆら。あんたの母親、こっから出してあげた方がええんちゃうかな。ここに
おらん方がええ思うで」
どうやら猫がもう一度縁から顔を出したのは、これを言いたかったからのようだ。
しかし、言われたゆらはまったく何を言われたのか分からず、ただぼんやりと鈴を見返すだけだった。
「……それは、どういう」
意味?と、ゆらが最後まで口にする間もなく、今度こそ鈴のぴんと立った尻尾が闇に溶けて行く。
「ああ、雨嫌いや~」と言う声だけが、妙におどろおどろしく庭の向こうから聞こえてきた。
ゆらは寒気を感じてぶるっと小さく身震いした。
「かあさまがどうしたって言うのよ~」
ともかくも、あの不思議な猫が母親を部屋から出せと言うのだ。
それは無視できない助言のように思え、ゆらはまた身震いして灯りのついている志乃の部屋に目をやった。
「かあさま……」
母の長患いがこの部屋のせいだとでも言うのだろうか。
ああ、でも、きっとそこにはもっと深い意味合いが込められているのだ。
ゆらは泣きそうになりながら、陰陽師であるという“鈴の旦さん”に一刻も早い東下りを願うばかりだった。
そこは見慣れた場所だった。
こちらにも小さな灯りがともっていて、淡い光が廊下まで漏れ出ていた。
けれど、この場所では珍しいことではなかった。将軍の寵愛篤い側室の容体にもしものことがあればすぐに対応する必要があるからだ。
「かあさまの部屋よ」
ゆらは戸惑いもあらわに鈴を見た。
「ここがどうかしたの?」
「あんた。なんも感じんの?ほんまに?」
「う、うん……。鈴ちゃんは何を感じてるの」
問い返すゆらに、鈴はまた溜め息をついた。
なんだかこの猫に溜め息ばかりつかれている気がする。
それは人としてどうなのか。
というような疑問を持たないところが、ゆらの長所であり短所であろう。
「旦さんの思い違いやないやろか」などと、鈴はぶつぶつと口の中で文句を並べている。
ちっとも話の見えないゆらはきょとんしていた。
「まあ、ええわ。どのみち旦さん来てからやないと動かれへんのやし。確認したいうことで、うちは帰るわ」
どうも、この鈴。己の思うままに動く性質らしい。
猫ゆえの奔放さであると言えなくもないが、付き合う方は大変なこともあるだろう。
だが、ゆらとて、自由度においてはあまり猫と大差はない。それに気付いていないのは本人だけだ。
宗明なら、「目的がない分、ゆらさまの方がひどいです」ときっぱり言ってのけるだろう。
「帰るって、鈴ちゃん、こんなとこまで来たのに帰るの?かあさまがどうかしたの?」
途端にゆらの胸に不安が広がった。
「うちらだけやったら、どうしようもないやろ。旦さん来るのを待つ言うてんねん」
「旦さん、東には来ないんじゃ」
「あんたが旦さん言うな。今は来れんいうだけで、あっちでの仕事が片付いたら来てくれはる。そん時は、あんた
もあんじょう働いてや」
「う、うん……」
いっそう訳が分からなくなっているゆらに、鈴はちょいちょいと手を曲げてみせると「ほなな」と言って縁から
庭へ飛び降りた。
と思う間もなくぴちゃんと水音がして、「ふにゃ」と猫が鳴いた。
「あか~ん。水たまりや~」
悲しそうな声がしたかと思うと、ひょっこり縁側の縁に鈴の顔が現れた。
前足をひとつプルプルと振って水しぶきを飛ばしている。
「だから、雨は嫌いやねん。あんな、ゆら。あんたの母親、こっから出してあげた方がええんちゃうかな。ここに
おらん方がええ思うで」
どうやら猫がもう一度縁から顔を出したのは、これを言いたかったからのようだ。
しかし、言われたゆらはまったく何を言われたのか分からず、ただぼんやりと鈴を見返すだけだった。
「……それは、どういう」
意味?と、ゆらが最後まで口にする間もなく、今度こそ鈴のぴんと立った尻尾が闇に溶けて行く。
「ああ、雨嫌いや~」と言う声だけが、妙におどろおどろしく庭の向こうから聞こえてきた。
ゆらは寒気を感じてぶるっと小さく身震いした。
「かあさまがどうしたって言うのよ~」
ともかくも、あの不思議な猫が母親を部屋から出せと言うのだ。
それは無視できない助言のように思え、ゆらはまた身震いして灯りのついている志乃の部屋に目をやった。
「かあさま……」
母の長患いがこの部屋のせいだとでも言うのだろうか。
ああ、でも、きっとそこにはもっと深い意味合いが込められているのだ。
ゆらは泣きそうになりながら、陰陽師であるという“鈴の旦さん”に一刻も早い東下りを願うばかりだった。


