そんな母が比較的体調が良い日。水戸から帰って六日余りたった日の事。

 久しぶりに対面した母はやつれ、手足は細り、目に光はなく、病は殊の外篤いように思われた。

 震える手を差し伸べる母を、まるで恐ろしいものでも見るように動けなくなってしまった、ゆら。

 腰元たちが見守る中で、乳母の娘であるあやめが声をかけた。

「ひめさま。お手を取って差し上げてくださいな」
 
 その声に我に返ったように顔を上げたゆらは、すっくと立ち上がると部屋の外に駈け出して行ってしまった。

「ひめさま!」

 あやめの声を無視して走り去るゆらの姿はあっという間に見えなくなり、あとには腰元たちのひそひそと批判的に繰り広げられる会話が部屋の中に広がっていった。

「やはり鄙育ちでいらっしゃるから……」とか、「水戸でどのようなしつけを……」など、あやめの耳に痛い声ばかりが聞こえてくる。

 誰にも気付かれないようにそっと息をついた時、また廊下を走る音が聞こえてきた。と、思う間もなく、どたどたという音は大きくなり、最後にはすいーっと廊下を滑って急停止。

「ひ、ひめさま!」
 
 着物ははだけ、髪は乱れ、息も荒い。

 あやめは感じたことのないような頭痛に襲われながら、ゆらの元ににじり寄った。

「ひめさま。ご病人さまのお側でございますれば……」

 すると、ゆらは怖いくらいに真剣な顔つきで敷居を跨ぐと、薄目を開ける母に手をグイッと差し出した。

「ひめさま?」

 腰元たちが慌てた声を上げるのも無視して、ゆらはその手に持っているものを母の枕元に置く。

「早咲きの桜です。水戸から帰って来た時に咲きそうだなって思って見たの。かあさま。お好きだったでしょう?」

「……」

 たちまち志乃の目が潤み、ゆらが膝に置いた手にそっと己の皮ばかりの手を乗せた。

「おかえり。ゆら」

 ゆらの大きな丸い目にも涙が溢れる。そのままゆらは声もなく泣き始めた。その涙には、彼女のさまざまな感情が込められていて、見る者の胸を打った。

 離れていた長い年月。幼子が母を恋しいと思わない筈はなく。また、病を心配しない筈はなく。

 お気楽そうに過ごしながらも、ふとした瞬間にゆらの瞳に悲しみが宿ったり、書いては送らずにしまってしまった文が何通もあることを、あやめは知っている。

 ここに来てようやく他の腰元たちも、そんなゆらの心に思いを至らせたことだろう。

「これからはいつでも母上さまにお会いできますよ。ひめさま」

 あやめが声を掛ければ、ゆらはこくこくと頷いた。

 志乃は小さな一枝ですら重たそうであったが手に取ると、そのひとつふたつ咲いた花を、飽くことなくいつまでも愛おしそうに眺めていた。