姫恋華〜ひめれんげ〜【改稿版】

 ここにきて、新之助はにわかに緊張した。

冷たい汗が背中を伝う。

妙に馴れ馴れしいのに腹の底の見えないこの男のことを警戒していたのに。

なのに、どこかで気を緩めていたのか。

「面接の日に、そこもとに話しかけてやめたことがあった。覚えているか」
久賀はそう耳元で囁いた。
記憶をたどれば、そんなこともあったような気がする。

それが今のこの状況とどう結びつくのか。

新之助はなんとかこの拘束を解こうともがくが、大して力を入れているようでもないのに、久賀の手はがっしりと新之助の手首を掴んで離れない。
それどころか、新之助が動くたびに、いっそう拘束は強くなるようだった。

「そこもとを一目見た時から腕の立つ男であろうと目星を付けていた。どうだ。おぬし、わしと一旗上げぬか」

 耳元で囁く久賀の声はねっとりと絡みつくようで非常に不愉快だった。

「ここの主が秘密裏に天子さまをお守りする志士を集めているらしいのだ。用心棒を雇ったのも、剣術を使えるものを選別するため。志士は京に行き、近頃物騒な人斬りどもを粛清するのだそうだ。どうだ。働きによっては天子さまのお膝元で名を上げることが出来るぞ」

「……」

「京に行くと言えば、まず金十枚下さるらしい。かなり美味しい話だろう?」

「そのようなうまい話。貴公は誰に聞いた?」

 新之助は口元を緩めた。

 手燭の灯りが新之助の秀麗な顔に影を作り、その笑みを一層際立たせた。

 久賀は新之助がその気になったとでも思ったのか、さらに顔を近づけ「実はこの屋敷の用人よ」と声を潜めた。

「他言は無用だ。このような話、あまり大勢に知れて、わしらの取り分が減っては辛いからな」

「……」

 佐伯が志士を集めている。

 それがどういう意味を持つのか、新之助は懸命に頭を働かせた。

 「天子さまを守る」というのは表向きの口実だろう。

 この話が本当なら、佐伯は私兵を作ろうとしているのではないか。

 やがて新之助はそこに思い至った。

 でも、いったい何のために?

「その話信用できるのか?」

「わしらは命の惜しくない浪人者。例え嘘だとしても、いつ果ててもいい身の上だろう。ならば話に乗っかってみるのも悪くない」

 達観したように言う久賀の顔を新之助は見つめた。

 恐らくは中年に差し掛かっていると思われる久賀は、その年齢以上に肌には深い皺が刻まれ、一つに束ねた総髪はゴマを散らしたように白くなっている。これまでの人生で彼の舐めてきた辛酸が思い起こされるような外見だった。

「貴公はもう返事を」

「ああ。聞いた瞬間、二つ返事だった。それで、わしが志士を募る役に任ぜられたというわけよ」

「ふうん」

 用人は久賀にまず目を付けたということか。

 でもなぜ久賀なのか。

 腕は確かなのだろう。こうしていても隙はなく、もし本気で切り結んだら新之助も無傷ではいられないように思われた。

 だが一見軽そうに見えるこの男を用人がどうして最初に選んだのか。

 新之助にはどうしても合点がいかなかった。

(何かある……)

 ならば。

 話に乗ったふりをしてもいいかも知れない。

 そこに佐伯に繋がる何かがあるような気がしてならなかったのだ。