朝陽兄上が私と入れ違いに留学から帰ってきて、すぐ聖夜兄上を「疱瘡病を得た」として仙湖に沈めたこと。
おもてむき病を得て亡くなった聖夜兄上の代わりに当主に誰を据えるか、という問題が皆本家を朝陽兄上を支持する占部派閥と朝陽兄上に反発し朱夏様を支持する坂田、渡辺、藤原、碓氷の派閥に分裂させたこと。
そのせいで薬を作る業務が滞っていること。
今皆本をつないでいるのは、皮肉なことに「民のために薬を届ける」という聖夜兄様の言葉だけであるそうだ。
綱兄様は穏やかな笑みのままだったが、不穏を胸にだいているようだった。
「聖夜兄上は朝陽兄上に殺されたなんて、なぜです?」
「嫉妬でしょうか。朝陽様は幼き頃より、聖夜様と対立してきました。当主の座がほしかったのかもしれません。」
「当主の座なんて・・・たったそれだけのことで」
「人間はたったそれだけのことで大それたことをしてしまうものです。しかし今のままでは、いずれ我々が民のために薬を届けることはできなくなるでしょう。」
薬の製造は民の命にかかわってくることであり、お家騒動で製造できなかったなど言い訳にもならない。
私は朝陽兄上へ怒りに似た感情がわいてくるのを感じた。
「それと、朱夏様が男になっていることは何か関係があるのですか?」
「あのお姿は朱夏様をお守りする為のわたくしが3人に頼みました。」
貞女が登紀子姉様のうしろで深々と頭を下げる。
「朱夏様はお命が危ないのか?」
貞女はしまったという顔をしたが、綱兄様がその後を引き受け自室だというのに、殊更声を低くした。
「朱夏様が女子であると知られたら、朝陽様は小春様ではなく朱夏様を室に迎えていたでしょう。朱夏様は嫡女ですから朱夏様をめとることで血の正当性を示せます。」
綱兄上は知らないのだ。
朱夏様が聖夜兄上と小春様とのお子様でないことを。
その勘違いが、朱夏様の純潔を守ってくれたことを考えると訂正する気にもならなかった。
朝陽兄上に朱夏様を奪われるなど考えただけで頭が爆発しそうだった。
「幸い朱夏様は朝陽様が留学中にお生まれになりました。朝陽様は性別をしりません。私たちは皆本を守るため朱夏様を嫡男としてお披露目したのです。朱夏様には我々が作る薬の盾になってもらう戦略です。」
綱兄様の声色は決して明るいものではなかったが表情は穏やかそのものだった。そうするしかない。そんな雰囲気がにじみ出ているが、私には許せなかった。
「あなた方は朱夏様をまだ利用するつもりか。女子が男のふりをしていきていくだけで見ておれぬのに。女子を矢面に立たせ当主にするのか!」
あの不安げな表情の意味がやっと理解できた。登紀子姉様と貞女はいたたまれないといった風に目線を下げる。
綱兄様は挑戦的に胸の前で腕を組み、その意図をくみ取る様に頼哉兄様が続けた。
「では、この皆本をどうなさるおつもりで?薬は民が待っているのですぞ?」
ここで私が当主になる、とでもいえばいいのだろうか。
いや、庶子の私には不釣り合いな座だ。
しかし・・。
一人逡巡していると貞女がこちらを縋るように見ている。
「予定通り真昼様が、朱夏様と婚姻なさればよいかと存じます。」
一同が登紀子姉様のうしろを振り返る。
「貞女、それは朱夏様に無礼というもの。」
「庶子の真昼様には不釣り合いな座でございます。」
登紀子姉様と頼哉兄様が次々と食って掛かる。
「しかし、聖夜様が決めた朱夏様の婚約者でもありました。」
「だからといって、真昼様が当主になるなど考えられません。」
食い下がる貞女を登紀子姉様は一蹴する。
この時ほど庶子出身である自身が憎かったことはない。
「・・・私がお守りします。」
つい口をついて出た言葉だったが、この時自分の気持ちを確信した。
お守りしたいだけではない。
朱夏様にもう一度会うことができるなら朱夏様をこの手にしたい。
「ですが今・・・私には朱夏様がみえないのです。」
貞女をはじめ皆が顔を見合わせる。
「・・・御姿が見えない?」
そこは初めて見る綱兄様の怪訝な顔があった。いつも温和で笑顔を張り付けたような顔をしていらっしゃる綱兄様に驚きながらも先ほど自身に起こった不思議な事象を話した。
「まるで幻術師が私の目の前から朱夏様を消したかのようでした。私自身、自分に何が起こったのか・・・。」
「・・・先ほど酒を飲まれていましたな。朝陽様からの酒を」
綱兄様に静かにうなづく。
「変わったことはありませんでしたか?」
登紀子姉様に効かれて思い当たる節はあった。妙な香りがしたことだ。
「酒の味が・・・私のお膳に置かれていた酒とは違っていました。花のような匂いで」
そういうと、皆また顔を見合わせる。
「おそらく白酒の花の薬を盛られましたな。…人の体は元々もう見たくない、聞きたくないという感情が高ぶると、視界からそのものを消してしまうことがある。朝陽様の使っている薬はその作用を増強させるのです。小春様もあの通り、聖夜様のことを忘れてしまっています。」
「そんな。そんなことありません!わたしは!」
なんと言う気だろう。
怒っていたのも事実だ。私を忘れた朱夏様が憎い、と。
「薬はないのでしょうか?朱夏様が見えるようになる・・・」
必死にすがりつく私を笑顔の奥で冷たく、慈悲深く見下ろしている。
「薬屋でありながらこんな回答しかできず申し訳ないのですが、待つしかありません。白酒の花の毒の解毒薬はつくられておりません。それに結局は心の病。薬ではなおらないのです。」
綱兄様の遠くを見渡すように淡々と語られる言葉がしみた。血も涙もないと思われたこの人たちにだって情けはあるのだ。
「ですが・・・守りたいのです。朱夏様を」
弱弱しすぎる声だった。
その夜は3聖人とも何もいわずそのまま御開きとなった。
朱夏様が女であることは決して口外しないように。
そう言いつけされて。
そのうち酒宴できいたことを忘れるように研究に没頭した。
薬で効果が増強されていたとはいえ、いまだ朱夏様の御姿が見えない自分にまだ怒っていたのだろう。
自ら朱夏様の情報を何一つ得ようともしなかった。逃げていた、今ならそういえる。
しかし恋しい気持ちだけは消えない。
薬を王都に卸に行く許可をもらって王都に行くときは必ず朱夏様へのお土産に焼き菓子を買うようになっていた。
聖夜兄上と小春様たちと焼き菓子を見ながら楽しく遊んだ時が忘れられなかったのだ。
そしてこの10年3聖人がとりはかってきたせいだろうか、聖夜兄上が死んだとき落ち込んだ薬の生産は安定し、各家の弟子たちも育ってきた。
しかし朝陽兄上と小春様との間で一向に世継ぎが出来ないことが、各家の当主の口に登らない日はないほどだった。
秘密裏にしらべたところ小春様のたべている饅頭には堕胎作用のある薬が混入されていることが分かった。
きっと貞女と小春様の考えたことだろう。それほどまでに朱夏様を男として当主にしたいのか。御子ができない期間が長引けば長引くほど、朱夏様を当主に、という声が高まっていたのは事実だった。
「もうそろそろ、譲位してはいかがか。」
あの側近はそんなことを朝陽兄上に囁いたのかもしれないし、妄執にとりつかれたのかもしれない。
どちらにせよ、朝陽兄上のお加減は日に日に悪くなるようで、側近と侍女数名が切り殺される事件にまで発展したのはつい先日のことだ。いつも飲んでいる酒の毒が頭に回ってしまったのかもしれぬ。このようになっては朝陽兄上の天下も長くないだろう。私はあることを胸にきめていた。
そして私の決めたことを実行に移す出来事がやっとおとずれた。あの日は偶然だった。
薬草採取の研修に使う馬を調達するため厩に出かけた。
研究部に配属された新人たちの教育を綱兄様に頼まれていたからだ。
朝陽兄上と小春様が入っていくのをちらっとみて、私は躊躇していた。
切り殺されてはたまらない。
しばらく陰から2人を見ていて突然、朝陽兄上が小春様とは違う誰かの声がした気がした。
私には何も見えないが、朝陽兄上が小春様以外に目を向けている。
誰かがそばにいるのか・・・?
覗き見ると
「母上、父上の思い出を捨てないでください。」
と懐かしい、大きな声がきこえた。
朱夏様だ。
本能が見つけたような、そんな気がした。
そして不思議なことに幻術師が私にかけていた幻覚を解いたように朱夏様はまさに忽然と姿を現したのだ。
本当に・・・朱夏様だ。
私は無意識にゴクリと生唾をのむ。
今まで声すら聞こえなかった。
なのに、突然すべてが現れた。
なぜか、考える余裕もなく朱夏様に飢えていた私は朱夏様を目で追った。久方ぶりに見る朱夏様は恰好や言葉遣いは男のようだが10年前と変わっていない。
おひとりで朝陽兄上に立ち向かおうとしておられるけなげさも。
そのとき私は気づいたのだ。
逃げていたのは私だった。
素晴らしい才能をもっていた聖夜兄上でさえ殺されたことに私は恐怖し、逃げた。
薬の作用などすぐに切れてもおかしくない。そのことを認めたくなかったからお姿を見ることができなくなっていたのだ。すべては私の心の弱さがまねいたのだ。
朱夏様はおひとりで戦っている。
そうおもうと矢も楯もたまらず、厩からきびすを返しすぐさま渡辺綱兄様のもとへ向かった。
朱夏様が今どのようなお立場なのか知る必要がある。
私が急に会いに行って怪しまれない、かつ、朱夏様のお立場をよく理解しているのはこの方だけだろう。
ついでに朱夏様だけが見えないという私の不思議な症状も知っておられる心強い方だ。
扉を開け座っている綱兄様のそばまでいって礼をする。
「朱夏様が見えるようになりました。」
「そうですか。ようございました。」
にこにことまるで今日の天気の話でもしているような穏やかさだった。
「この10年を取り戻したいのです。」
この一言と思い詰めたような表情で何かを察した綱兄様は朱夏様の現状を教えてくれた。
綱兄様によると朱夏様は才能に恵まれているが故、朝陽兄上に恐れられ留学も、配属すらされない状態であると伺った。嫡男だと思い込んでいる朝陽兄上に、才能に恵まれた朱夏様が知識や統率力を兼ね備えたとき太刀打ち出来なくなるのをおそれているのだろう。男として生きることもかわいそうなのになぜ、そのような仕打ちを受けていることにも同情してしまう。
綱兄様は話の最後にわたしにこうきいた。
「真昼様何を考えておられますか」
朱夏様を娶るのか、はたまた朱夏様を当主にするのか。
やはり問題になるのは10年前我々の間で意見の分かれた事案だった。
隠し立てしても仕方ない。これはよい機会だ。
皆本を、朱夏様を朝陽兄上から救う、唯一無二の。
「体も心も大きくなられたようだ。・・・真昼様はご兄弟を討つ覚悟ができたとみてよろしいか?」
「はい。討つ覚悟です。そして、私が当主になります。」
「・・・まだわかってないのか!庶子の分際で…」
綱兄様が目を見開き、恫喝する。思えば綱兄様が感情を表したのをこの時初めてみた。しかし、わたしは至極冷静でいられた。
「わかっております。庶子の私が当主になるのはたやすくはないでしょう。しかし朱夏様を矢面に立たせたくはありません。私が当主となり、朱夏様と皆本をお救いする盾になる。」
心に朱夏様がいたからた。
健気にひたむきに。
朱夏様を真似しただけだ。
その様子に気圧されたのか、取り乱した自分を恥じたように綱兄様はいつもの冷静でにこにことした顔に戻られた。
「・・・邪魔だてはしません。しかし万が一朱夏様のお命が危ぶまれたとき、我らは真昼様を切り捨てる。」
「承知しております。」
思ったことを言葉にして綱兄様の部屋を辞すると胸にいくつもの純粋な気持ちが渦巻いていた。
朱夏様と新しい皆本を築く。
朱夏様をお守りする。
朱夏様が嫡流だからではない。朱夏様とともに人生を歩んでいきたい。
だから私には朱夏様がテグル族だなんてただただどうでもよいことなのです。
おもてむき病を得て亡くなった聖夜兄上の代わりに当主に誰を据えるか、という問題が皆本家を朝陽兄上を支持する占部派閥と朝陽兄上に反発し朱夏様を支持する坂田、渡辺、藤原、碓氷の派閥に分裂させたこと。
そのせいで薬を作る業務が滞っていること。
今皆本をつないでいるのは、皮肉なことに「民のために薬を届ける」という聖夜兄様の言葉だけであるそうだ。
綱兄様は穏やかな笑みのままだったが、不穏を胸にだいているようだった。
「聖夜兄上は朝陽兄上に殺されたなんて、なぜです?」
「嫉妬でしょうか。朝陽様は幼き頃より、聖夜様と対立してきました。当主の座がほしかったのかもしれません。」
「当主の座なんて・・・たったそれだけのことで」
「人間はたったそれだけのことで大それたことをしてしまうものです。しかし今のままでは、いずれ我々が民のために薬を届けることはできなくなるでしょう。」
薬の製造は民の命にかかわってくることであり、お家騒動で製造できなかったなど言い訳にもならない。
私は朝陽兄上へ怒りに似た感情がわいてくるのを感じた。
「それと、朱夏様が男になっていることは何か関係があるのですか?」
「あのお姿は朱夏様をお守りする為のわたくしが3人に頼みました。」
貞女が登紀子姉様のうしろで深々と頭を下げる。
「朱夏様はお命が危ないのか?」
貞女はしまったという顔をしたが、綱兄様がその後を引き受け自室だというのに、殊更声を低くした。
「朱夏様が女子であると知られたら、朝陽様は小春様ではなく朱夏様を室に迎えていたでしょう。朱夏様は嫡女ですから朱夏様をめとることで血の正当性を示せます。」
綱兄上は知らないのだ。
朱夏様が聖夜兄上と小春様とのお子様でないことを。
その勘違いが、朱夏様の純潔を守ってくれたことを考えると訂正する気にもならなかった。
朝陽兄上に朱夏様を奪われるなど考えただけで頭が爆発しそうだった。
「幸い朱夏様は朝陽様が留学中にお生まれになりました。朝陽様は性別をしりません。私たちは皆本を守るため朱夏様を嫡男としてお披露目したのです。朱夏様には我々が作る薬の盾になってもらう戦略です。」
綱兄様の声色は決して明るいものではなかったが表情は穏やかそのものだった。そうするしかない。そんな雰囲気がにじみ出ているが、私には許せなかった。
「あなた方は朱夏様をまだ利用するつもりか。女子が男のふりをしていきていくだけで見ておれぬのに。女子を矢面に立たせ当主にするのか!」
あの不安げな表情の意味がやっと理解できた。登紀子姉様と貞女はいたたまれないといった風に目線を下げる。
綱兄様は挑戦的に胸の前で腕を組み、その意図をくみ取る様に頼哉兄様が続けた。
「では、この皆本をどうなさるおつもりで?薬は民が待っているのですぞ?」
ここで私が当主になる、とでもいえばいいのだろうか。
いや、庶子の私には不釣り合いな座だ。
しかし・・。
一人逡巡していると貞女がこちらを縋るように見ている。
「予定通り真昼様が、朱夏様と婚姻なさればよいかと存じます。」
一同が登紀子姉様のうしろを振り返る。
「貞女、それは朱夏様に無礼というもの。」
「庶子の真昼様には不釣り合いな座でございます。」
登紀子姉様と頼哉兄様が次々と食って掛かる。
「しかし、聖夜様が決めた朱夏様の婚約者でもありました。」
「だからといって、真昼様が当主になるなど考えられません。」
食い下がる貞女を登紀子姉様は一蹴する。
この時ほど庶子出身である自身が憎かったことはない。
「・・・私がお守りします。」
つい口をついて出た言葉だったが、この時自分の気持ちを確信した。
お守りしたいだけではない。
朱夏様にもう一度会うことができるなら朱夏様をこの手にしたい。
「ですが今・・・私には朱夏様がみえないのです。」
貞女をはじめ皆が顔を見合わせる。
「・・・御姿が見えない?」
そこは初めて見る綱兄様の怪訝な顔があった。いつも温和で笑顔を張り付けたような顔をしていらっしゃる綱兄様に驚きながらも先ほど自身に起こった不思議な事象を話した。
「まるで幻術師が私の目の前から朱夏様を消したかのようでした。私自身、自分に何が起こったのか・・・。」
「・・・先ほど酒を飲まれていましたな。朝陽様からの酒を」
綱兄様に静かにうなづく。
「変わったことはありませんでしたか?」
登紀子姉様に効かれて思い当たる節はあった。妙な香りがしたことだ。
「酒の味が・・・私のお膳に置かれていた酒とは違っていました。花のような匂いで」
そういうと、皆また顔を見合わせる。
「おそらく白酒の花の薬を盛られましたな。…人の体は元々もう見たくない、聞きたくないという感情が高ぶると、視界からそのものを消してしまうことがある。朝陽様の使っている薬はその作用を増強させるのです。小春様もあの通り、聖夜様のことを忘れてしまっています。」
「そんな。そんなことありません!わたしは!」
なんと言う気だろう。
怒っていたのも事実だ。私を忘れた朱夏様が憎い、と。
「薬はないのでしょうか?朱夏様が見えるようになる・・・」
必死にすがりつく私を笑顔の奥で冷たく、慈悲深く見下ろしている。
「薬屋でありながらこんな回答しかできず申し訳ないのですが、待つしかありません。白酒の花の毒の解毒薬はつくられておりません。それに結局は心の病。薬ではなおらないのです。」
綱兄様の遠くを見渡すように淡々と語られる言葉がしみた。血も涙もないと思われたこの人たちにだって情けはあるのだ。
「ですが・・・守りたいのです。朱夏様を」
弱弱しすぎる声だった。
その夜は3聖人とも何もいわずそのまま御開きとなった。
朱夏様が女であることは決して口外しないように。
そう言いつけされて。
そのうち酒宴できいたことを忘れるように研究に没頭した。
薬で効果が増強されていたとはいえ、いまだ朱夏様の御姿が見えない自分にまだ怒っていたのだろう。
自ら朱夏様の情報を何一つ得ようともしなかった。逃げていた、今ならそういえる。
しかし恋しい気持ちだけは消えない。
薬を王都に卸に行く許可をもらって王都に行くときは必ず朱夏様へのお土産に焼き菓子を買うようになっていた。
聖夜兄上と小春様たちと焼き菓子を見ながら楽しく遊んだ時が忘れられなかったのだ。
そしてこの10年3聖人がとりはかってきたせいだろうか、聖夜兄上が死んだとき落ち込んだ薬の生産は安定し、各家の弟子たちも育ってきた。
しかし朝陽兄上と小春様との間で一向に世継ぎが出来ないことが、各家の当主の口に登らない日はないほどだった。
秘密裏にしらべたところ小春様のたべている饅頭には堕胎作用のある薬が混入されていることが分かった。
きっと貞女と小春様の考えたことだろう。それほどまでに朱夏様を男として当主にしたいのか。御子ができない期間が長引けば長引くほど、朱夏様を当主に、という声が高まっていたのは事実だった。
「もうそろそろ、譲位してはいかがか。」
あの側近はそんなことを朝陽兄上に囁いたのかもしれないし、妄執にとりつかれたのかもしれない。
どちらにせよ、朝陽兄上のお加減は日に日に悪くなるようで、側近と侍女数名が切り殺される事件にまで発展したのはつい先日のことだ。いつも飲んでいる酒の毒が頭に回ってしまったのかもしれぬ。このようになっては朝陽兄上の天下も長くないだろう。私はあることを胸にきめていた。
そして私の決めたことを実行に移す出来事がやっとおとずれた。あの日は偶然だった。
薬草採取の研修に使う馬を調達するため厩に出かけた。
研究部に配属された新人たちの教育を綱兄様に頼まれていたからだ。
朝陽兄上と小春様が入っていくのをちらっとみて、私は躊躇していた。
切り殺されてはたまらない。
しばらく陰から2人を見ていて突然、朝陽兄上が小春様とは違う誰かの声がした気がした。
私には何も見えないが、朝陽兄上が小春様以外に目を向けている。
誰かがそばにいるのか・・・?
覗き見ると
「母上、父上の思い出を捨てないでください。」
と懐かしい、大きな声がきこえた。
朱夏様だ。
本能が見つけたような、そんな気がした。
そして不思議なことに幻術師が私にかけていた幻覚を解いたように朱夏様はまさに忽然と姿を現したのだ。
本当に・・・朱夏様だ。
私は無意識にゴクリと生唾をのむ。
今まで声すら聞こえなかった。
なのに、突然すべてが現れた。
なぜか、考える余裕もなく朱夏様に飢えていた私は朱夏様を目で追った。久方ぶりに見る朱夏様は恰好や言葉遣いは男のようだが10年前と変わっていない。
おひとりで朝陽兄上に立ち向かおうとしておられるけなげさも。
そのとき私は気づいたのだ。
逃げていたのは私だった。
素晴らしい才能をもっていた聖夜兄上でさえ殺されたことに私は恐怖し、逃げた。
薬の作用などすぐに切れてもおかしくない。そのことを認めたくなかったからお姿を見ることができなくなっていたのだ。すべては私の心の弱さがまねいたのだ。
朱夏様はおひとりで戦っている。
そうおもうと矢も楯もたまらず、厩からきびすを返しすぐさま渡辺綱兄様のもとへ向かった。
朱夏様が今どのようなお立場なのか知る必要がある。
私が急に会いに行って怪しまれない、かつ、朱夏様のお立場をよく理解しているのはこの方だけだろう。
ついでに朱夏様だけが見えないという私の不思議な症状も知っておられる心強い方だ。
扉を開け座っている綱兄様のそばまでいって礼をする。
「朱夏様が見えるようになりました。」
「そうですか。ようございました。」
にこにことまるで今日の天気の話でもしているような穏やかさだった。
「この10年を取り戻したいのです。」
この一言と思い詰めたような表情で何かを察した綱兄様は朱夏様の現状を教えてくれた。
綱兄様によると朱夏様は才能に恵まれているが故、朝陽兄上に恐れられ留学も、配属すらされない状態であると伺った。嫡男だと思い込んでいる朝陽兄上に、才能に恵まれた朱夏様が知識や統率力を兼ね備えたとき太刀打ち出来なくなるのをおそれているのだろう。男として生きることもかわいそうなのになぜ、そのような仕打ちを受けていることにも同情してしまう。
綱兄様は話の最後にわたしにこうきいた。
「真昼様何を考えておられますか」
朱夏様を娶るのか、はたまた朱夏様を当主にするのか。
やはり問題になるのは10年前我々の間で意見の分かれた事案だった。
隠し立てしても仕方ない。これはよい機会だ。
皆本を、朱夏様を朝陽兄上から救う、唯一無二の。
「体も心も大きくなられたようだ。・・・真昼様はご兄弟を討つ覚悟ができたとみてよろしいか?」
「はい。討つ覚悟です。そして、私が当主になります。」
「・・・まだわかってないのか!庶子の分際で…」
綱兄様が目を見開き、恫喝する。思えば綱兄様が感情を表したのをこの時初めてみた。しかし、わたしは至極冷静でいられた。
「わかっております。庶子の私が当主になるのはたやすくはないでしょう。しかし朱夏様を矢面に立たせたくはありません。私が当主となり、朱夏様と皆本をお救いする盾になる。」
心に朱夏様がいたからた。
健気にひたむきに。
朱夏様を真似しただけだ。
その様子に気圧されたのか、取り乱した自分を恥じたように綱兄様はいつもの冷静でにこにことした顔に戻られた。
「・・・邪魔だてはしません。しかし万が一朱夏様のお命が危ぶまれたとき、我らは真昼様を切り捨てる。」
「承知しております。」
思ったことを言葉にして綱兄様の部屋を辞すると胸にいくつもの純粋な気持ちが渦巻いていた。
朱夏様と新しい皆本を築く。
朱夏様をお守りする。
朱夏様が嫡流だからではない。朱夏様とともに人生を歩んでいきたい。
だから私には朱夏様がテグル族だなんてただただどうでもよいことなのです。
