詩月はさらりと言い、姿勢を正した。

ヴァイオリンを構え弓を握り直すと、詩月の表情が一変する。

「ラフマニノフのヴォカリーズか~」

1小節目を聴き、安坂はポツリ呟く。

セルゲイ・ラフマニノフの歌曲「ヴォカリーズ嬰ハ短調」は、1912年6月に作曲された、ソプラノとテノールのための14の歌曲集だ。

最初の草稿はピアノ伴奏だったが管弦楽編曲を行い、管弦楽曲になった。

母音「アー」で歌われる溜め息のようヴァイオリンの旋律と、淡々とした和音の対旋律を奏でるピアノ伴奏が印象的な曲だ。

潮風が紅く色づき始めた木々を微かに揺らす。

沈み始めた陽に水面が、金色に光っている。

安坂は風景の美しさに演奏が負けていない、と思い更に耳を澄ませ、演奏に集中する。

「全く、授業や教授のレッスンでも……この演奏をすればいいものを」

 詩月の演奏は学園内で聴く普段の練習とは、明らかに演奏の輝きが違う。

粗を1つでも見付けてやろうと構えていた安坂は、フッとため息をついた。


ーーこんな演奏をされたら……粗の1つや2つ、どうだっていいじゃないか
弾き終えたら、「くそったれ!!」と思い切り言ってやる

安坂には詩月が普段、本気の演奏をしていないように思え、詩月に対し沸き上がる嫉妬と闘志を感じて、拳を握りしめた。

 心地好い風が潮の香りを運ぶ。

ヴァイオリン演奏を聴いている安坂の足下に白い猫がちょこんと座り、詩月を見上げている。

スカーフを首に巻いた、苦虫を噛み潰したような顔の猫は、カフェ・モルダウで、よく見かける、あの猫だ。

詩月は見知った猫の姿をちらっと目に止め、表情を和らげた