「即興?」

「ん? 苦手だったな。無理ならヴァイオリンで音をとるから合わせろよ」

「わかったわ」

 郁子は自信なさげに応える。

「愛の挨拶」はエルガーが恋人との婚約記念に贈った曲で、エルガーの作品中では初期のものだ。

タイトルはフランス語で“Salut d'amour”。

ピアノ独奏用、ピアノとヴァイオリン用などいくつかの版があり、ホ長調で4分の2拍子ーー単純な旋律の中に優美さがあふれる。

緩徐なホ長調のシンコペーション、オクターブで歌われる甘美な調べは、言葉などいらないほど想いを伝えられるように暖かい。

 ピアノよりも弦・管楽器での演奏の方が曲を引き立てる分、難しいが、詩月にぬかりはない。

詩月は即興に不馴れな郁子のピアノを引き上げ完璧に弾く自信がある。

時折、薫ってくる金木犀の甘い香りが一層、曲を甘く優しくする。

「まるで恋人同士ね。息がピッタリ」

「そうだな、ちょっと妬けるな」

 そんな会話を知ってか知らずか、詩月はちらと会話の中心に目を向けた。

目を細めながら、優等生風の青年が笑っている。

詩月が驚き「安坂さん!」と声を上げそうになったのを安坂が口元に人差し指を当て合図する。

詩月には安坂の目が笑っていないように思えた。