「ったく、バカにしている」



そう呟いて、詩月は甘い香りに足を止め、深く息を吸い込んだ。



柔らかく甘い香りを胸いっぱい吸い込むと、苛立っていた気持ちがたおやかに和らいでいくようだった。


気を落ちつかせ、正門へ向かって歩く。



 喫茶店モルダウの扉を開けると、扉の風鈴が鳴り、珈琲の芳ばしい薫りが漂ってきた。



カウンター席にはアランが座り、マスターとにこやかに話をしている。




中央に殿と構えた黒塗りのスタンウェイには白い猫が、ゆたりと座っている。



「ミャウ」



白い猫は顔をあげ、詩月を確認すると「1曲弾いて」おねだりでもするように甘い声で鳴いた。



 詩月の肩には、黒い革のヴァイオリンケースが光っていた。