男性はポツリ呟くように話し、コートの内ポケットから学生証の入った手帳を取り出すと、詩月に差し出した。

「すまない。戻しそびれていた」

「あ……ありがとうございます」

詩月は慌てて頭を下げた。

この人が居なかったら、この人が救急車を呼んでくれていなかったら、どうなっていたかわからないと思うと、体の震えが止まらなかった。

 男性を見上げ、夕暮れの中、音を重ね奏でた「宵待草」を思い浮かべた。

「君、指は大丈夫か?」

「指、ですか?」

「……いや、何でもない。今日は良い演奏を聴かせてもらった」

男性は素っ気なく言い、カップに残った珈琲を一気に飲みほし、店を出た。

「あっ、待って!! 確かめたいことがあるんだ。宵待草を……」

急ぎ声をかけ、男性を追おうとした詩月を、マスターの手が素早く遮った。

「彼を……アランを、そっとしておいてやってくれないか」

マスターの訴えるような眼差しに、詩月はただ従うしかなかった。