「やめ――!」

 私が声を上げて止めるよりも早く、梨乃さんの手が振り上げられた小田桐の手をしっかりと握っていた。こんな時でもニコニコと微笑んでいる梨乃さんを見て、自分の背筋がぞっとしたのを感じる。

「梨乃、はなせっ!」
「聖夜さん、もういいでしょう? 酔っ払いのした事ですし」

 掴まれた腕は振り下ろされるわけでもなく、小田桐が力を入れていないのかと思いきや、良く見ればプルプルと小刻みに震えているのがわかった。一見すればただ手を掴んでいるだけのように見えた梨乃さんの綺麗な指も、小田桐の腕に触れている部分が元々の肌よりも一段と白くなっていて、その事が小田桐の手が振り下ろされないようにしっかりと握られているのだと言うことがわかった。

「こいつは一度痛い目にあわないとわからないんだ、いいからはなせっ!」
「――聖夜さん? 聞き分けの無い子は……嫌いです」
「ぐぁっ!」

 掴んでいた小田桐の手をぐるっと背中に回すと、小田桐が悲鳴を上げた。怯んだところを更にグッと押しソファーの背に腹ばいになるようにして、梨乃さんは小田桐をねじ伏せる。そして、ジャッ君はと言うと邪魔にならないようにと気を使ったのか、私の横にずれてきた。
 流れるようにして行われた一連の動作に、私は目が点になる。美人でスタイルも良くて、料理も出来るし給仕も出来る。小田桐兄弟もコントロールする事も出来る凄い人だとは思っていたが、そこに‘強い人’も付け加わった。

「兄さん、今日はやけに梨乃に歯向かうね。勝てっこないのに」

 小田桐には決して聞かれないように、私に耳打ちしたジャッ君に私は呆れた。よりによって、何でこんな軽いノリで私のファーストキスが奪われなければならないのだろう。勝手に奪われて悔しい気持ちよりも、酔っていたとは言え避け切れなかった自分にちょっとムカついた。

「あのね、元はと言えばジャッ君が……」
「ん? 何で?」

 その時に見せたジャッ君の顔が、まるで私がそう言うのを待っていたかのような表情をしているように見えて、思わず口を噤んでしまう。
 口元をヒクつかせている私を見て、ニヤリとジャッ君の口角が上がる。何だろう、このそこはかとなく感じる嫌な雰囲気は……。

「確かに僕は歩にキスしたけどさー、兄さんが怒る筋合いは無いよね? 恋人同士なわけじゃないんだし?」
「は、はぁ?」
「歩が怒るならまだしも、何で兄さんが‘あの’梨乃に歯向かってまで怒るんだろうね?」
「……」

 ――な、何よ何よ? そのニヤニヤ顔はっ!
 全部疑問系で言われたその言葉の答えを、私に導き出せとおっしゃるのか?

「そんな事、……私に聞かれてもわからないよ」
「ほんとに? ほんとにわからない?」

 両手を頭の後ろに組んで一人だけ楽しそうな顔をしているジャッ君は、もしかしたら羊の皮を被った悪魔なのかもと思えてきた。すぐ隣では自分のせいで兄が酷い目にあっていると言うのに、何をこんなに余裕ぶっこいているのだろうか。
 何だか頭の中をのぞかれている様な、そんな気がして私はいい気がしなかった。