「芳野さん、みっちゃんに聞いたけどわからないっ――て? ……あ! これはこれは小田桐さん。いつもご贔屓に有難うございます」

 奥の扉から姿を現した店長が小田桐の姿を見るなりいきなり薄い頭を下げた。続いて出てきた慎吾さんはと言うと、がんこな汚れがある時に使う床掃除用の洗剤を握り締めている。まさかとは思うが、それを私の髪に塗布するつもりだったのだろうか。間違って目に入りでもしたらどうするつもりなんだろう。て言うか、目に入らなくてもあのツンッとした独特の臭いできっと目が潰れてしまうんじゃなかろうか。それを使うくらいなら、まだ切り落としてしまった方が幾分マシだろう。
 私が慎吾さんに対して不信感を抱き初めていると言う事も知らず、小田桐の姿を見つけた途端、また目くじらを立てた。

「ああっ! また、あんた! いい加減に――」
「店長、小田桐の事知ってるんですか?」
「へ?」

 店長が小田桐に薄い頭を下げた事にもかなり驚いたが、私のその発言に後からやって来た慎吾さんも負けじと驚いている。その場にいる全員をキョロキョロと見回し、さも一体どういう事だと言いたげなのが良くわかった。

「知ってるも何も、向かいに出来るビルのオーナーの息子さんだよ」
「ええ??」
「!?」
「慎吾、お前もちゃんとご挨拶なさい。これからお世話になる人なんだから」

 そう言うと、店長は慎吾さんのまだフサフサした頭を無理に下げさせた。
 当の慎吾さんはと言うとやはり素直に頭を下げるのが嫌なのだろう。店長の手が頭から離れると、むすっとした表情で視線を足元にやった。
 しかし、ここ頻繁に小田桐の姿を見るようになったわけがやっと理解できた。そう言えば、父親が日本への進出を考えていると小田桐の口から聞いた事があったが、まさか私が働いている店の前にその会社が出来るなどとは思ってもみなかった。

「店長、コイツ――、……芳野は今日は何時まで働く予定ですか?」

 初めて聞く小田桐の敬語に一瞬耳を疑う。誰にでも傲慢な態度だったのに、ちゃんと目上と言うものを理解して言葉を使い分けられる様になったのかと、まるで母親にでもなった気分になり妙にしみじみした。
 だが、何故私の勤務時間を気にするのだろうか。

「えーっと、芳野さんは明日の朝の五時までだよね?」
「はい」

 小田桐は店内を見回し、壁に掛かった時計に視線を移す。今はまだ二十三時を過ぎた所で仕事を終えるにはまだまだだと気付いているはずなのに、自分の立場を利用してかとんでもない事を言い出した。

「こんなナリしたやつ、ここに置いてても仕方ないでしょ? もう上がらせてやってはどうでしょうか」

 これには慎吾さんも黙っちゃいられない。

「あんた、黙って聞いてりゃ随分勝手な事!」

 こっちの仕事の事まで口出ししてきた事に、怒り心頭といった様子だった。
 しかし、この二人は何故こうも顔を合わせる度に喧嘩になってしまうのだろう。特に最近は先に慎吾さんが怒りをぶつける為、私の出番は全くと言っていいほど無くなっている。あのへらず口の小田桐を言い負かすなんて事はそう簡単に出来るものではない。ギャーギャー喚けば喚くほど無駄にエネルギーを消費するだけだと言うのに、慎吾さんはまだその事に気付かず、相手になってやるとばかりに小田桐に食って掛かった。
 なのに、

「――お前、誰?」 
「はぁっ!?」

 慎吾さん、又もや撃沈。
 どんだけ存在感の薄い人なんだろう。流石の私も慎吾さんが不憫に思えて仕方が無かった。

「まぁ、でもそうだなぁ。小田桐さんの言うとおりそれじゃ仕事にならないから、芳野さん、今日はもう帰っていいよ」

 そんなやり取りをなんなくスルーした店長に、私も慎吾さんもガクッと拍子抜けした。