山に入ったときから気になっていた。

 それは上るたびに大きくはっきりと聞こえてくる。

「この音は―――」

 アキラは濡れた岩で、何度も滑りそうになりながらも、黙々と進んた。

 壁のように見える苔むした岩に手をかける。

「近い」

 アキラは反動をつけて、ひょいっと、岩の上に上がった。

 落ちないように、しっかりと足をつけてその上に立つ。

「やっぱり」

 アキラは眼下を流れる川を見下ろした。

 流れはそれほど速くない。

 透明な水が、下流に向かってたっぷりと流れている。

「いい音」

 アキラは目を閉じて耳を澄ます。

 自分でも、音に対して異常なほど執着心があるのは知っている。

 康孝に言わせると、これは、失われた記憶が音に反応している証拠らしい。

「あぶないよ」

 突然足元の方から声がした。

「去年そこから落ちて怪我した子がいるんだから」

 アキラは後ろを振り返り、岩の下を覗き込んだ。

 老婆だった。

 肩から提げたかばんからは山菜が飛び出している。。

「のどが乾いたのかい?」

 老婆はアキラの腰から下げた空のペットボトルを見て、にんまりと笑った。

「こっちにおいで」

 背を向けて歩き出した老婆の後をアキラは少しはなれて追う。

 老婆は慣れた足取りで、確実に上っていく。

 アキラが、木々の向こうに小さな六角亭の茶屋を発見した時には、老婆はすでに茶屋の前に立っていた。

 白い旗に団子と書いてあるのが見える。

 老婆はアキラを手招きしている。

「食われるのかと思った」

 六角亭の前まできて、そうつぶやいたアキラに、老婆は入れ歯をむき出しにして笑った。

「食わないとは言ってないよ」