じりじりと皮膚を焦がす痛みが彼の意識を束の間の逃避から引き戻した。頬や露出した腕に貼り付くように密着したコンクリート壁は、太陽光にじりじりと炙られて、一体どれくらいの高温になっているだろうか。全身が焼け付くように痛い。だが、指先を動かすのが精一杯で、首を回す事すら出来ず、どうにも抜け出す手段を見つけようもない。男は、コンクリート壁と壁の隙間、約三十センチメートル程の幅の空間に、埋め込まれるように挟まっているのだった。

 表面がざらざらした高温の壁面に胸と背中を挟まれ、顔は右側を向いたまま動かせない。だらりと垂らした腕を少しでも動かそうとすると、すぐに擦り傷が出来る上にその行動は何の役にも立たなかった。腕が太いので、僅かにずらす事も難しいからだ。厚い胸板が引っかかって、男はつま先立ちの状態だった。

(苦しい。暑くて身体中の血が沸騰してしまいそうだ……)

 最初に気付いた時はこんなに暑くはなかったのだが、時刻は昼に向かっていた。
 汗の粒が流れ込んで霞む目に、時折、壁の向こう……恐らく男のいる場所から数メートル先の道を歩く人の姿が映る。

「た、助けてくれ!」

 その度に男は声を上げたが、人は、何も気付かないか、或いは、どこかから何か聞こえただろうか、という風にちょっと足を止めて周囲を見回したりはしたが、まさか塀と塀の隙間の奥に人が挟まっているなどとは思いつきもしないらしく、すぐに、気のせいだろうというように首を振って、そのまま立ち去ってしまうのだった。三十センチを人が通り過ぎるのは一瞬で、その出口は遙か遠くに感じられた。最初、男は助けを求めて何度も大声で喚いたが、そのうち喉が渇き、日が昇るにつれて口の中までカラカラになって声も出なくなった。



 いったい何故、おれはこんな目に遭っているのだろう、と男はぼんやりと、朝から何度も続けている問いかけを自身の記憶に向けて放ってみる。
 朝、息子を連れて家を出た。コンビニで朝飯を買う為だ。先月、妻が出て行ってから、男と息子の毎日はこの行動から始まる。そうだ、ここはコンビニと隣のビルとの塀の間だ。よくよく見れば、三十センチの光景はコンビニの駐車場だ。妙な隙間があるものだな、と最近気付いたばかりだった。しかし、一体どうしてこんな所に入り込んでしまったのだろう?
 息子……そうだ、あいつはどうなっているだろう、と男は思い出してどきりとする。三歳の息子は、車のチャイルドシートで眠っていた。こんなに暑くなって、車内は相当な高温の筈だ。駐車場で車内に取り残されて熱中症になった子どものニュースが男の脳裏を巡る。

「だれか……子どもを助けてくれ……車の中……」

 男は掠れ声を上げるが、勿論誰かに聞こえた様子はない。

(俺の息子が……死んでしまう!!)

 男は、束の間自分の置かれた苦境も忘れて息子の為に助けを求めた。もしかしたら幼い息子は、今自分が置かれているよりもっと苦しい状態にいるかも知れない。或いはもう……そう思うと、男はいても立ってもいられずに、皮膚が熱された壁にこすれて剥がれるのも厭わずにもがいた。
 


 だがその時。男は見た。三十センチの隙間から覗く、大きな目。今まで見えていた街の光景の切れ端ではなく、異様な程に大きな目。

「パパぁ~」

 目はそう呼びかけて涙を零した。男はほっとした。なんだ、あれは息子の目だ。身動きも取れない状態でも、男にはそれと判った。何しろ溺愛している息子だ。どうでもよかった女との間に出来てしまった息子だが、まだ三歳なのに利発な子で……。

「大丈夫だったのか。誰かに車から出してもらったのか」

 高温で朦朧とした男の意識では、三歳の息子の目ばかりが大きく覗いているという事態の異常さには気づけない。良かった、後は息子に助けを呼ばせればいい、あの子は賢い子だから、と思う。

「おーい、誰か大人を呼んでくれ。ここにパパがいます、って教えてくれ」
「パパ-、ママは?」

 子どもは父親の言いつけは聞こえなかったように問いかけてきた。男は苛立ち、

「ママ? ママはいない。知ってるだろ?」
「ママ……」

 子どもの目からまた涙が零れる。

「いいから、早く誰かを呼んでくれ。いい子だから」
「ママ……」

 子どもは涙を流し続けている。大きな目から溢れた涙が地面にぶつかって水の玉となって散り、男の身体を濡らした時、男は初めて異様な事態に気付いた。子どもが巨人のように大きくなっている!

「パパがママを閉じ込めちゃったんだよね。ママを出して」

 これは夢だ、と男は思った。

「ママはもういない。ママなんていなくても、パパがいれば寂しくないだろ? 早くパパをここから出してくれ」

 男は訳の解らない恐怖に囚われながらも息子に懇願する。

(あいつは本当に馬鹿な女だった。こんな利発な子なんだから、早期英才教育を受けさせて名門幼稚園に入れようと、出勤前に毎朝五時に子どもを起こして教材に取り組ませていたのに、可哀相だと言いやがった。子どもは子どもらしくがいいじゃない、だと? 自分が無教養だからって、子どものチャンスを奪うなんて母親失格だ。なのにあいつは、終いには子どもを連れて実家に帰ると言いだしやがった。だからおれはあいつを……。あれはこの子の為にやったんだ。なのにこの子はあんな母親がいいって言うのか)

「パパがママをあそこから出してくれないなら、ぼく、パパをしまっちゃうよ? パパがママにしたみたいに」
「何を言ってるんだ。おまえはあの時も車の中で眠っていた筈だ」
「ううん、ぼく、おめめがさめたの。ぼくは見ていたよ。パパがママを壁の中にしまっちゃうところを」

 男の背筋を冷や汗が伝った。

(まさか、この子は見ていたのか? 俺があの女の死体を、実家の地下室の壁の穴に塗り込めるところを……)

「こうやって、石の中にしまうんだよね……」

 子どもの言葉と共に、少しだけ、男を挟んでいる塀の幅が狭まったようだった。男は呻き声をあげる。そして、気付いた。

(子どもが大きくなったんじゃない。おれが、小さくなってるんだ!)

 子どもは、コンクリートのブロックを二つ立てて、その間に父親を挟んでいるのだった。

「やめてくれ、いい子だから。後でアイス買ってやるから、な?」

 虫歯のもとだからと、甘いものは一切食べさせなかった男にとっては、最大限のご褒美に思えた。しかし子どもは、

「ママは時々、パパにはないしょで食べさせてくれたよ。アイスよりママの方がいい。じゃあね、パパ」

 子どもは、二つのブロックを左右から押して閉じ合わせた。三歳の子どもの力では少し難しかったので、ゆっくりと。



「ぼく、何をしてるの?」

 コンクリートブロックの前にしゃがみ込んでいる子どもに、コンビニの店員が声をかけた。

「しまっちゃうごっこ」

「ママかパパは?」

「パパ、あっち」

 子どもはコンビニと隣のビルを隔てる塀を指さした。塀と塀はぴったりと接して、隙間はない。店員は首を傾げた。

「どういう事かな?」

 そして思った。

(あの塀のしみ、前からあったかしら? 何だか血みたいだわ。ペンキか何かだろうけども)

「パパもママも壁に入っちゃったの」
「まあ、大変。じゃあ、ぼくは誰がお迎えに来てくれる?」
「おばあちゃんを呼んで。ぼく、おばあちゃんの電話番号、覚えてるよ」

 子どもは店員に手を引かれてコンビニに入っていった。
 


 正午過ぎの日差しが照りつけるコンクリート塀のしみは、徐々に乾いた色になっていった。