「え。……ああ」
矢沢エイジは少し身じろぎした。
「子どもが生まれてからね…」
「そう…」
あたしは大きな手の温度から逃れて、立ち上がった。
鞄をつかんで、正座したままの矢沢エイジを見下ろす。
「美緒ちゃん……」
好きだったたれ目が、あたしを見上げながら大きく揺れる。
何か言いたげに。
でももう、アンタからは何も聞きたくないよ。
「……さよなら」
自分でも驚くくらい冷たい声が出た。
矢沢エイジの表情が固まる。
『おめでとう』なんて言えるほど、あたしは偽善者じゃない。
冷めたコーヒーを最後に見て、早足で305号室を後にした。
矢沢エイジはずっと石みたいに動かなかった。
「………は」
エレベーターに乗ってボタンを押した瞬間、力が抜けて壁にもたれてずるずるとしゃがみこんだ。


