「……私の妻も、ピアニストでした」


りっさんが、気ままに鍵盤を叩きながらつぶやいた。その音は、雨のしずくのように、しとしとと聞こえた。そして、いつのまにか、緊張していた私の心を解きほぐして流してくれた。


「私も、音大生でした。ピアニストが目標で、一生懸命練習したのですが、ある一人の女子学生にはかなわなかった。それが妻です。私たちは、大学を卒業してから、しばらくピアノ講師をしていたのですが、それでは食べていけなくて、私はピアニストを諦め、調律師になって安定した収入を得ることにしました。それが、前途有望なピアニストとなった妻の支えになると思ったからです。しかし、妻はある冬にこじらせた肺炎で亡くなりました。私はお金がなくて、満足な葬儀をしてあげられなかったので、代わりに妻に捧げる熱情ソナタを弾きました。このお宅で、ピアノをお借りして」


雨音は、いつのまにか熱情ソナタ第二楽章の印象的な旋律を奏でていた。


「そして、その精神の葬儀に参列してくださったのは、お嬢さん、あなたでした」


りっさんは、軽く息をついて、天井を見上げながらピアノを弾き続けた。


「お嬢さんは、その時、『りっさん。りっさんのこと、ずっと好きでいてあげるから、もう泣かないで』とおっしゃいました。そう、私はこうやってピアノを弾きながら泣いていたんですね。気づかずに。その日の出来事は、私にとってとても大切な記憶なんですよ。だから、来年ここに来ても、お嬢さんに会えないかもしれない、と聞かされた時は落ち込みましたが、お嬢さんの未来のために、私は弾きます」