「あか……つけ……ましょ…… ぼんぼ……に……」


椎名和馬は、自分のオフィスに入った時、待たせていた夕夏が何やら歌を口ずさんでいるのを見て、思わず書類を取り落とした。紙が落下して、床に散乱する硬い音を聞いて、夕夏は歌うのをやめた。


「いや、失敬。どうぞ、歌っていてかまわないよ。謹聴するから」

「……誰が人前で歌うか。お前がもう来ると知っていたなら、歌ったりしない」


夕夏は、ひどく悔しそうだった。弱味を握られた、とでも思ったのかもしれない。


椎名は、書類を集めながら、そんな夕夏の横顔に目をやった。初めて聞いた夕夏の歌声は、ひどく懐かしく感じられる風情があった。音程はおぼつかず、歌詞ははっきりしない。しかし、自分の頭の中で流れる音楽に合わせて、どこかもの思わしげに、夕夏は静かに歌っていたのだった。


椎名と夕夏は、かなり長い間、仕事上のパートナーとして、共に過ごしてきた。それでも、まだ夕夏のことはほんの少ししか知らない。椎名は、彼女の幼なじみの克己が羨ましかった。


「完璧」な人間にはないはずの、忌まわしい感情、羨望。椎名は、そんなものが自分に残っているとは考えたくなかった。あるいは―。