「できるものなら、忘れてみろ」

 余裕を漂わせた声が背中にぶつかった。

「さ、さよならっ。絵の件はまた連絡します!」

 おばあちゃん、私は貞操を守るわ!

 絨毯が敷き詰められた床が、ヒールの音を吸収する。私は走って部屋の外に出て、ドアを閉める。すぐ背後で、オートロックが作動する音がした。

「う~、もう!」

 ドアに背中をつけて唸った。

 今夜は色んなことがありすぎて疲れた。

 お父さんのバカ。大変なことを私とおばあちゃんに丸投げして。家族より絵が大事なのね。もう老後の面倒も見てやらないから。

 しかし、しかし、それにしても、西明寺社長め……付き合ってもいない女の唇を奪うとは! 許しがたい!

 本気を出せば、私をここから出さないことも、社長には容易いはずだった。でもそうしなかったのは、結局は本気を出すほど私に執着していないからだろう。

 翻弄されるな、私!

 ぱんぱんとすっぴんの頬を自分で打って、ずんずんと歩き出す。途中でルームサービスのワゴンとすれ違った。そこからはとてつもなくいい匂いが漏れてきて、私は部屋に留まらなかったことを、爪の先くらい、ほんの少しだけ、後悔した。