親元を離れての集団就職だと聞いた。声の小さな娘で、まるで内緒話をしているように見えてしまう。何でも青森出身らしい。多分、例の方言で散々からかわれたのだろう。前の職場では人間関係がうまくいかず、学校の斡旋でこの会社に入ってきた筈だ。とにかく万事において控えめで、出しゃばるということを知らない。女子は、こうでなくっちゃ。会社の寮に入っていたらしいが、今は社長宅で寝泊まりしている。
 で、社長の娘であるこの事務員が、お姉さん代わりに何やかやと世話を焼いているというわけだ。その社長令嬢に対して、俺はため口を利いている。他の者は、結構敬語を使っているけれども。皆が皆、俺を変人扱いしている。

「仮にも社長令嬢だよ。それに年上なんだから、そんな口の利き方はどうかと思うよ」
 例の彼が、ありがたくもお節介に忠告してくれるけれども、そうなると反骨心がムラムラと湧いてくるのだ。
「なんですって。お休みには、お昼まで白河夜舟なの? その内、目玉が腐るわよ。少しは早起きしなさい。そうだ! 彼女がいれば、いいのよ。どうせ、いないでしょ。そうね…どんな女の子が良いかしらね。いいわ、待ってなさい。あたしが見つけてあげるから」

「そういう自分はどうなんだよ。俺よりそっちが先だろうが。あゝ、見つけてあげるなんて言っといて、まさか俺に『あたしなんか、どう?』なんて言うんじゃないだろうな。俺、年上はイヤだからね」
「なに言ってるの。『年上の女房は、金のわらじを履いてでも探せ。』なんて言われてるのよ。それに、このナイスボディよ。言い寄る男なんか、星の数ほど居るんだから。お見合いの話がね、先日もきたの。でもね、あたしは安売りしないの。玉の輿に乗るんだからね」

 日曜日、カラリと晴れ渡った。俺の前途を祝福しているようで、唯々嬉しい。いつもだとお昼近くまで白河夜舟のくせに、今日は何と七時に目が覚めた。白河夜船なんて古くさい言葉を…なんて言うなかれ。女子大出の社長令嬢であらせられる事務員が、教えてくれたんだから。
 朝食もそこそこに、会社の駐車場に急いだ。昨日、しっかりとワックスをかけてはいたが、約束の十時までには一時間もある。もう一度、ワックスをかけることにした。勿論、エンジンの点検やら車内の掃除も念入りにした。

 車がピカピカに光り始めた。十時少し前を、最新型の腕時計が指している。自慢の物だ。少々高かったけれども、どうせ買うなら、やっぱり良いものをと思ったのだ。この時計を眼鏡店で買ったことに対し、友人が歯ぎしりしていた。俺だって○兵が安いということは知っている。
 しかし、その時に考えたのだ。安く買うという事は、小売に問屋そしてメーカー全てで利潤を圧迫する。社会全体に利潤がなくなり、巡り巡って俺の勤める会社の利益低下を招くだろう。そして給料に影響してくる。だから○兵はやめた。と、言い張った。実のところは、その眼鏡店に美人の店員が居ると、噂に聞いたからだけれども。

「お待たせー!」
 ピンと緊張の糸が張る。次の瞬間、ガクッときた。一人、あの社長令嬢の事務員だけだ。
「心配しないの、真理子ちゃんはお買い物中。お弁当は作ったけど、デザートの果物が欲しいんですって。あそこのスーパーで待っている筈よ、心配ないって」
「いや、そんなことは、俺は…」
 顔が赤くなっていないかと心配しつつ、車に乗り込んだ。『ガキッと、力一杯にローにギアを入れた。アクセルを踏み込み、出発。

 暖気運転はしっかりとしている筈なのに、朝一番のエンジンは機嫌が悪い。少しもスピードが出ない。俺は不本意ながら、チョークを一杯に引いた。エンジンが急激に元気になり、スピードが乗った。ところが少し走ってすぐにエンスト。吸い込みだ。
「何、どうしたの? 下手なのね、もっとスムーズに運転してよ。点数、下がるわよ」
“あんたの体重のせいだよ”
 と、心の中で思いつつも「はいはい、お言葉通りにしますよ」と、答えてしまった。ニュートラルに戻して再始動。又、エンスト。ギアがサードだった、相当上がっているようだ。クスクス笑いの中、俺は気を取り直して再発進した。

 ラジオのスイッチを入れると、♪恍惚のブルースよー♪と、流行りの歌が流れてきた。交差点での信号待ちで、ボンヤリと行き交う人を見た。色とりどりの服装かと思ったが、意外なことに殆ど寒色系の色ばかりだった。してみると、俺は黒が好きでズボンにジャンパーが黒で、ポロシャツがモスグリンでは、まるで目立たない。安心できるような淋しいような、変な気持ちだ。そんなおセンチな気分に浸っている俺に、女神が微笑みかけた。

「ごめんなさい、お待たせしました」
 横断歩道で車の窓を叩いてくる。スーパーの駐車場はすぐそこだ。まさか交差点での乗り込みとは考えていなかった俺は、慌てて「駐車場に入るから。」と、手で合図した。意 外にせっかちなんだ。
 俺の意に反し、真理子ちゃんは後部座席に座った。が、内心ホッとする気持ちもある。そんな俺の気持ちを察してか、「あとで席を交代するから、今は我慢しなさい。」と、事務 員からのありがたいお言葉があった

「そ、そんなこと。べ、別に……」
 しどろもどろになってしまった。真理子ちゃんも又、耳たぶまで真っ赤になっていた。意識させちゃだめなのに、事務員のバカ!
 緊張の糸がピント張ったまま「よーし、行くぞ!」と、グンとアクセルを踏み込んだ。
この車にしては、順調に滑り出した。期待通りにスピードが乗ってきた。なのに、冷たい言葉が聞こえてきた。
「遅いわネェ、もっと出ないの!」
「そんなご無体な! これ以上エンジンを回したら、壊れちゃうよ」