それでは、娘の話を致しましょうかな。わたしの命とでも言うべき、愛する娘の話を。
 よろしいか! 愛すると言いましても、娘でございますぞ。えぇえぇ、娘でございますからな。
 わたしはですな、もちろん作業場でございますよ、はい。上菓子の製作に汗を流しております。
 お通夜のお宅がございまして、そのご用意をさせて頂いております。箱詰めの作業にいそしんでおりますところでした。ひと休みしたいのでございますがな、正直のところは。
 妻と娘がですな、仲むつまじくしている所など、見たくもありませんですからな。なあにもう暫くしましたらば、妻が店の方に出てまいりますですよ、はい。
 そうしましたらば、わたしが娘と談笑するのでございます。どんな話かと申されましても、ハハ、たあいもない会話でございます。

「毎日暑いけれども、体は大丈夫かい?」
「うん」
「今日は出かけないのかい?」
「うん」
「そうかい、家にいてくれる…」
「ごめん、約束があるんだったわ」
 とまあ、こんな調子でございますよ。えぇえぇ、以心伝心でございますとも。長々と会話をする必要など、まったくございませんから。

 ある夜のことでございました。娘の妙子に、感謝の意味も込めまして「洋服の一枚も買ってきなさい」と、少しまとまったお小遣いを渡すことにいたしました。いえいえ、お駄賃はあげておりますですよ、毎回。なに、ほんの少しですから。
 は? 洋服がミニスカートですと? 誰がです! そのような不埒なもの、小夜子が買い求める筈がありますまいて。え? 小夜子と言いましたか? 妙子です、妙子ですぞ。そう申したのに……
「妙子や…」
 声をかけようとしますと、部屋から声が聞こえてまいりました。妻が、妙子と話しこんでいるようでございます。昼間にも話をしているのに、こんな遅くまでなにも…。なあに、どうせわたしの悪口を吹聴しているのでございましょう。

「で、どうなの? お父さんのお世話、キチンとしてくれてる?」
「勿論よ! いっつも、『ありがとうな』って、手を合わせてくれてるわよ」
「そうなの、そんなに喜んでくれてるの。それは良かったわ、この先もお願いね」
「うん、良いわよ。お駄賃だって、お小遣いもくれるしさ。でも、どうしてお母さんたち、仲が悪くなったの?以前は仲が良かったじゃない。お母さんが寝込んだ時、お父さんが寝ずの看病をしてくれたんだって?」
「そうね、そんなこともあったわね。女学校に入ってすぐだったわね。あの頃のお父さんときたら、お母さんのこと、観音さまのように崇めるところがあってね。嬉しくなんかないわよ、重荷よ。お友達の前なんかでそんな素振りを見せられて、カッときたわよ」

「ふーん、そうなんだ。ほんとにお母さんが好きだったのね。なのに、今は…」
「そうなのよね。お母さんには思い当たることがないのよね。昔から本心を言わない人だったから」
「それとさ、お母さんって恐妻家なの? お父さん、いっつも遠慮気味に話すじゃない? 敬語を使ったりするじゃない?」 
「恐妻家だなんて、とんでもない。お父さんが遠慮してるだけよ。ほら、お父さんって、奉公人だったでしょ? その頃のクセが抜けないのよ」
「ふーん。コンプレックスがあるんだ。でもそれって、ある意味怖いよね」
「あら、どうして?」

「コンプレックスが高じると、支配欲が生まれるんだって。ゴムボールをさ、抑え続けていくとね、限界点に達したらボン! って弾かれるでしょ? それと同じなんだって。人間の心も、同じなのよ。だからね、人を責める時は気をつけなくちゃいけないんだって」
「へえー、そうなの。誰に聞いたの? 先生?」
「う、うーん。同級生のお兄さん。すっごく頭の良い人。良いんだけど、時々訳の分かんないことを言ったりやったりするんだって」
「とに角ね、お父さんのこと、頼むわよ。お母さん、ちょっと体調が悪いみたいでね。お父さんは、妙子には大甘だからね。大抵のことは許してくれるから」
「うん、任せといて! お母さんは、しっかりと養生して」

 な、なにが、頼むわよ、ですか! 頼まれなくても、妙子はわたくしの世話をしてくれますですよ。貞節な妻を演じるのは、いい加減にやめて貰いたいものです。
 そうでしょう、皆さん。
 罪滅ぼしのつもりなのでしょうかな、まったく。それに反して、娘のなんと優しいことか。「養生してね」とは、本当に心根の優しい娘でございます。
「だめです、そんなこと。許しません。だめなものは、だめです!」
 突然に、妻の怒鳴り声が聞こえてまいりました。珍しくも、妻と娘で言い争っております。
「だめ、だめ、だめですって! もうお店に出ますよ。お父さんに言っても、許してくれませんよ、そんなことは。第一、どうして今まで言わなかったの! 今日の明日ということはないでしょ!」

 捨てゼリフというのでございましょうか、眉間にしわを寄せたまま出て来たのでございます。はち合わせしないようにと、わたし、慌てて作業場に戻りましたです。
「お父さん、お父さん。ちょっと聞いてよ。お母さんたら、ひどいのよ」
 娘が頬を膨らませて、バタバタと作業場に駆け込んでまいりました。
「これこれ。埃を立てちゃだめだよ、ここでは。どうしたいんだい、それにしても。何を血相を変えているんだい?」
「お母さんったらさ、『だめだ、だめだ』の一点張りでね。ちっとも話を聞いてくれないのよ。お父さんは良いよね。ねっ、ねっ、ねっ。行っても良いよね」
 わたくしの背中に抱きついての、おねだりポーズでございます。固さの残る乳房を押し付けてくるのでございますよ、はい。ぐふ、ぐふ、ぐふふ…

「どこに行くんだい? 映画かい? 何をお母さんはだめだと言ってるんだい。あ、そうか。一人はだめだよ。お友だちと一緒に行きなさい」
 わたくしの早合点でございました。てっきり、映画を一人で観に行きたいと、駄々をこねているのだと思ったのでございます。
「もちろんよ! お友だちも一緒よ。うぅん、先生も一緒なの」
「先生もかい? だったら良いじゃないか。何をお母さんは、怒ってる? で、どんな映画なんだい? 吉永小百合あたりかい? 裕次郎と共演してる、若い人とかいう映画が面白いらしいじゃないか」
「違うわよ、お父さん。合唱部の合宿なの。一週間の予定でね、みっちり練習してくるのよ。今度の大会では、みんなで力を合わせて優勝を目指すの」

 目を輝かせて言いますです、はい。それはそれは、美しい顔でございます。
「ほぉ、ほぉ。一週間もかい? 長いねえ、それは」
「何言ってるの! 初めは、十日間の計画だったのよ。でもね、学校側の許可が下りなくてね。仕方なく、一週間に縮めたの」
「うん? 学校でやるわけじゃないのかい? 確か去年は、学校だったと思うんだがね」
「だからね、それではだめなの! 集中できないのよ。
父兄がね、差し入れだなんだって、毎日誰かの所から来るのよ。お母さんも来たでしょ? それで結果は、入賞はできたけれどもさ。でも今年は、最後だしね。絶対に、優勝したいのよ。それでね、全国大会に出るのよ。
良いでしょ、参加しても。もう参加するって、届けは出してあるの。ねっ、ねっ、お父さんってば」

 あ、あ、あゝ…。甘美な囁きでございます。
 わたしの耳元で、妙子が囁くのでございます。甘い吐息が、わたくしの頬にかかるのでございます。妙子の甘い香が、わたくしを包むのでございます。だめです、だめでございます。これ以上は、わたくしの理性も持ちませんです。
「妙子!」
 きつい声が、飛んでまいりました。又しても、妻の邪魔が入りました。あ、いえいえ、とんでもございません。良かったのでございます。でなければ…。
「お父さん、良いって言ってくれたわよ!」
 と、娘が言いますです。
 いえいえ、とんでもございません。わたしは、そのようなことなど申しておりませんです。とんでもないことでございます。
 しかし娘は、「ねー、お父さん。許してくれたわよね。うん、って頷いてくれたわよね」
 と、わたくしの背中から離れませんです。自分の体を左右に揺らせております。妙子、妙子や。止めておくれよ、いや止めないでおくれ。

「ほんとなんですか!」
 それはもう阿修羅の如き恐ろしい形相で、わたくしめを睨みつけますです。
「いや、あの、その……」
 しどろもどろの返事しかできないわたくしでございましたが、「とに角、わたし、参加するから。費用は出してくれなくてもいい。お友だちにでも借りてでも、何とかするから」と、娘の妙子は強情を張りましたです。わたしが、妙子に責められている錯覚に陥ってしまいますです、はい。
「分かったよ、分かったから。銭箱の中から持って行きなさい。友だちに借りるだなんて、そんなことはさせられないよ」
「ありがとう、お父さん。大好きよ!」
 あぁ、妻がその場に居なければどうなっていたことか…。
 妙子の頬がわたしの頬にぴったりとくっついて。妙子が声を出すたびに、わたしの頬に妙子の唇が……。

 失礼しました、申し訳ございません。お話を続けましょうかな。
 正直のところは、わたしも内心では反対でございました。いえ、妻の申すような心配事からではございません。わたしの反対の理由は、妻と二人だけの日々が苦痛なのでございます。又、娘と離れての日々を過ごすことが、苦痛であり淋しくもあるのでございます。
 己の都合だけからの反対心でございました。自己中心的だとのご指摘、その通りでございます。返す言葉もございません。しかし、その頃のわたしには、娘の居ない日々は考えられなくなっておりました。
 正直のところ、毎日の学校ですら苦痛でございました。片時も離したくない、そんな気持ちでございました。