ちょっとした昔話。

 那智が生まれる前の俺は、とにかく母親に愛されようと必死だった。
 なんでもいいから、俺を認めてほしかった。笑い掛けてほしかったし、抱っこをしてもらいたかったし、いい子だと頭を撫でられたかった。

 だから、ひたすら我慢をしていた記憶がある。母親やとっかえひっかえに作ってくる彼氏の暴力や暴言に。
 それに耐えられなくて近所に助けを求めた日まで、ずっと我慢をしていた。

 助けを得られなかった以降の記憶は、よく憶えていない。
 ぼんやりと殴られて過ごす日常を送っていたと思う。見切られたショックのせいで、幼い俺の心は死んでいた。

 心を取り戻し始めたのは那智が生まれて二年くらい経った頃だったか。
 それまで那智が生まれても、なんか小さい奴が家にいるってくらいの認識がなかった俺は子守を任されると、それを淡々とこなしていた。

『にーぃ?』

 言葉を覚え始めた弟は、世話をする俺の名前を呼ぶようになった。適当に返事をしてやると、意味も分かっていないくせに笑いを返した。
 それは俺が求めていた物のひとつ。笑い掛けてくる弟が見たくなり、もっと世話をした。

 決定的になったのは、俺が母親に手をあげられ、怪我をした日のこと。
 いつものように、殴られ自室に閉じ込められてしまった俺は、鬱陶しいという理由だけで部屋に放られた那智と一緒に過ごすことになった。

『いちゃい?』

 体の節々が痛くて、弟の世話をする気分じゃない俺に那智は歩み寄り、そして腫れた頬を見つめ、こんなことを聞いてきた。

 素直に痛い、と答えるとどうだ。
 弟は頬を撫で、傷を癒そうとした。体を突き飛ばしても、離れろと強めに言っても、那智は泣かずに頬を撫でてくる。

 こんなことをされても痛みなんて消えるはずないのに、消えるわけがないのに。弟の俺を思う優しい手が痛みを忘れさせてくれた。

『にぃ、いいこ。いいこ』

 十二分に頬を撫でた後、那智は俺の頭に手を置いた。
 そして、幼い声でいい子だと言って聞かせた。殴られた俺を見て、悪い子じゃない、いい子だと励ましてくれた。

 俺がなにより欲しい言葉を、小さな弟がくれた。殴られて続けていた俺は、どこかで思っていた。自分が悪い子だから母親は愛してくれないのだと。
 だから、自分がいい子だと言われた瞬間、何かがぷっつりと切れてしまった。

 気付けば、声を殺して泣いていた。
 完全に心を取り戻した俺は、弟の体を抱きしめ、心も体も痛いことを訴えた。それを癒そうとする那智も、俺と一緒に泣いてくれた。

 誰かが自分のために泣いてくれたことも、撫でてくれたことも、癒そうとしてくれたことも初めてで、俺はむせび泣いた。
 こいつだけが俺を愛してくれる、そうに違いない。ただひたすらに泣きながら、そう思った。