新しい傍付きが現れた。
珍しいことに男だ。
それも、まだ子供――。


「我々も、美代様に手を上げるのを心苦しく思っていたのです。親子の縁を切ったとはいえ、やはりまだ父と娘の絆が経ち切れずにいるのか、どうしても美代様の至らぬところを見つけてしまうと我を忘れて怒ってしまいます。それもこれも、美代様に我々の真なる神様になっていただきたい一心からくるもの。それで、今日からこの子を美代様に捧げることにいたしました」

お前はなにを言ってるんだ?頭がおかしいのか?そうだな、おかしいよな。
お前がしているのは、〝怒っている〟という言葉では形容できない。
お前がしているのは〝暴行〟であり〝虐待〟だ。

思ったが、口にできるはずもない。


「遥、と申します……」

紹介された子供は、とても小さな声で言った。
まだ小学校低学年くらいの男の子だった。
ちんまりとして痩せている。前髪は誰が切ったのだと問いたいほど短く、表情は良く見えたが、その顔はどこか歳不相応に暗く、淀んでいるようだった。
この寒さの中、白い着物一枚だ。
冷たい廊下の床に正座させられている。

まるで、私のようではないか――。

そう気付いて、背筋が凍った。


「口数も少なく、穏やかな性分で、よく気が付くそうで。美代様の邪魔は致しませんでしょう。これから何か御用がある際は、この子にお申し付けください」

待て待て待て。
こんな小さな子供に何をさせるつもりだ?

私が茫然とその子を見つめていると、頭がおかしいことばかり言っている男は、更に続けた。

「この子は、先日美代様の傍付きから離れた椿の遠縁の子でございます」

なんてことだ――。


「……このように小さな子を親元から引き離すべきではない」

私の言葉に、男は少しばかり驚いた様子だったが、またすぐに可笑しな笑みを浮かべた。
不思議なものである。顔は真っ黒に塗りつぶされているのに、この男がどんな表情を浮かべているのかはわかるのだ。わかりたくもないのに。

「遥の親はおりません。美代様が可愛がられないのでしたら、名のある兄様か姉様にお預けいたしましょう」

ああ、待て待て待て。それはもっと良くない。
遥の顔が、一気に悪くなった。
〝名のある兄様姉様〟のところに連れていかれれば、自分がどのような目に遭うかわかっているのだろう。

(……そうして、今まで生きてきたのだろうか)

「この子は、学校には行っていないのですか」
「そうですな。所謂、産まれていない子、というやつでして」

男がしれっと言った言葉に、どれだけの事実が含まれているか、考えただけで吐き気がした。
大方、妊娠した信者は病院にもかからず、多くの姉様の助けを借りて出産したのだろう。
その出産は役所には届けられず、この子は社会的に存在したない者として育てられてきたのだ。
この腐った庭では、よくあること――。

「……み、美代様」

遥の声が震えている。

「わ、わたくしは、美代様の助けになるよう、精一杯努めます……」

大人に言えと言われたのか。
こんな小さな子供に、そんな言葉を言えと、誰が。



「……頼仁」
「なんでしょう、美代様」

にっこりと笑んだ頼仁に、頭の中で包丁を三十本くらい突き刺した。

頼仁は、私の父親であるこの男の名前だ。
呼べば口が舌から腐りそうで、久しく口にしていなかった。
心底から殺してやりたいと思うが、この男一人殺したところで、何も変わらない。

「私の傍付きにするというのなら、この子は私のところで生活させる。私の部屋の向かいに、一部屋あっただろう。その部屋をこの子にあげなさい。この子に命じる権限は私だけにあると、皆に知らせなさい」

私のこの言葉にどれだけの効力があるのかは知らないが、せめてもの反抗だ。
私を神様だというのなら、黙って従え――。

「お言葉ですが、美代様。遥はまだ勉強不足で、至らない点も多々あると思われます。美代様にご迷惑を掛けない程度に教育してから、と思っておりましたが」
「先程の自身の言葉を忘れたか。そう言うなら、躾てから連れてくればいいだろうに。遥は私がもらい受ける。お前達は手出しせぬよう」

頼仁を見つめると、さすがに言い返すこともできないようだった。
ここからは見えないが、恐らく数人が、廊下の向こうからこちらの様子を伺っている。
私の言葉を無視すれば、それこそ信者たちには不信感が広がることだろう――果たして、そこまで信心深い信者かはわからないが。

「下がれ。私は遥と話がしたい」

言えば、あっさりと下がっていった。
そのまま二度と顔を出さなければいいのに。

頼仁が去って少しして、人の気配もなくなった。
私は遥に手招きして、部屋へと入るよう言う。

「いいえ、美代様のお部屋に入ることは罰当たりだと言われています」

誰がだ。部屋に入ったくらいで罰など当たらない。

「私が入れと言っているのだが」

脅したつもりはなかったが、遥はびくっと肩を震わせておずおずと敷居を跨いだ。

「そこは冷たかっただろう。おいで、この座布団の上に座りなさい」

とはいっても、この部屋にも暖房器具などない。
部屋に置かれた座布団を引き寄せ、しまっていた布団から掛布団を取り出す。
それを遥の肩からくるむように掛けてあげると、遥は驚いたように顔を上げた。
ぱちり、と目が合うが、びくっと怯えられてしまった。
大きな目に映った自分を見て、納得する。

「……ああ、お前、私が怖いのだね」

それもそうだ。私はガリガリで、頬もこけているし眼も窪んでいる。
ちょっとした骸骨になりきれない幽霊のように見えるのかもしれない。

「悪いが、あまりご飯を貰えないんだ。これは栄養不足で痩せているだけで、移る病でもない。だからそんなに怯えなくていいよ。まあ、そのうち慣れてくるだろう」

正座もしなくていいと言ったが、遥はふるふると首を振って律儀に正座を続けた。

「……遥、か。いい名前だね。誰がつけてくれたの?」

とりあえず仲良くなれたらいいな、と単純に思った。
彼が今までどういう世界で生きてきたかは知らないが、まあ、ろくなものじゃないだろう。
おこがましくも、少しでも仲良くなれたら、遥の気持ちが安らぐかもしれないと思ったのだ。

私の言葉を無視するのは不敬だとでも思ったのか、遥は少しだけ考えて口を開いた。

「お父さんが付けてくれたって言ってました」
「そうか。いい名前だね」

これはさっきも言った気がするが、心中それどころじゃなかった。

そのお父さんはどこにいるんだろう。母親は?
亡くなったのだろうか。
この話題はやめよう。

「私の名前はね、皆は美代って呼んでいるけど、本当は春野っていうんだ。〝ハル〟って言葉がお揃いだね」

自分でもしょうもないことを言ってしまったが、遥の表情が少しだけ明るくなってきた気がするのでほっとした。

「そうだ、飴を食べたことはあるかな」

私は、律が投げてよこしたあの飴を取りだした。
私が手にしたそれを見て、遥が不思議そうな表情を浮かべている。

「……これは、なんですか」

飴を知らないか。
軟禁して育てられてきた可能性が高くなった。
決められた範囲内で生活するよう言われてきたのだろう。
もしかしたら、外の世界のことなどほとんど知らないかもしれない。
私以上に。

「変なものじゃない。手に取って……そうそう、その包みは食べたらだめだ。それを剥がしたら、丸いのが出てくるからね」

遥は不慣れな手つきで飴の包装を解いた。
ミルク色のそれは、きっと甘くて美味しいだろう。

「食べてごらん。大丈夫、美味しいからね」

言えば、遥は存外素直に口に入れた。
それを見て、少し安心する。
これだけ素直に見慣れないものを口に入れたということは、腐ったものを与えられた経験もなさそうだ。
そんな経験、なくていいのだが。

「……」

遥の表情が、見る見るうちに変化していった。
口に添えられた両手から、高揚が伝わってくる。

「美味しいだろう?飲み込んだらだめだよ。喉に詰まってしまうからね。ゆっくり舐めて溶かしてもいいし、噛んでもいいよ」

言うと、遥は少しだけがりっと噛んだようだった。
遥の口の中に、甘い優しさが広がっていくのがわかる。

私はなぜか、少し泣きそうになっていた。


「……美味しい?」

問うと、遥は興奮したようにこくこくと頷いた。
もごもごしている口許を手で覆っているあたり、しっかりと教育されてきたことはわかる。

「そうか、喜んでくれたらなら、よかったよ」

祖父のことを思い出した。
何も知らない私に、飴やチョコや焼き鳥を与えたとき、私もこんな顔をして食べていたのだろうか。

「でも、これは秘密だよ。飴を食べたなどと、絶対に、誰にも言ったらいけない」

真剣にそういえば、遥もしっかりと頷いた。
これがばれれば、どんな罰が待っているかわかっている顔だ。


そして遥は、頼仁のためにある私の杭だ。

これから私が勝手をすれば、遥に追及がいくだろう。
私を同じ体罰を遥に受けされることで、私の自由を制限しようというのだろう。
私が頼仁に不利益を与えれば、神の身代わりだとでも称して遥を罰するつもりなのだ。

遥は、初めて食べる飴に瞳をキラキラさせている。
可愛いな。

可愛いのに、こんな歪なことがあるだろうか。
小学生くらいの子供が、初めて飴を食べて、涙を流さんばかりに感動している。

そういったものから、遠ざけられて育った証拠だ――。
戸籍もなく、軟禁生活で育ち、世俗のものとは隔離され、〝教え〟に背いたら罰を与えれる――。
遥は、間違いなく不幸な生まれだ。

こんな、〝庭〟という名の宗教団体に生まれてきてしまったがために。


死ねばいいのに。

みんな、みーんな死んでしまえばいいのに。