その夜シュティーナは、控え室兼宿泊用の部屋に戻り、夕食後の静かな時間を過ごしていた。

 父とイエーオリとは別だったので、リンとふたりだったが、リンはいま、結婚式用ドレスの打合せとかで部屋を出ていた。気が早いと思ったのだが。

 滞在中の世話をお願いできる侍女もが付けられたが、やはり落ち着かない。さすが王宮。部屋が無駄に広い。

 シュティーナはゆったりとした白い寝間着に着替えていて、窓に寄りカーテンを開ける。今夜も月が綺麗だった。部屋にある燭台が柔らかな炎を灯していて、安らぎを与えてくれている。

(サネム殿下は、もう寝たかな)

 重苦しい日々が嘘のようで、これからはサネムとのことだけを考えていけるのだと思うと、胸が温かくなってくる。

(眠れないかもしれないけれど、横になろうかしら)

 シュティーナは寝台へ行こうとカーテンを閉めた。すると、低く遠慮がちに、ドアがノックされた。


「シュティーナ様、わたくしです。イエーオリです」

「イエーオリ? どうしたの」

「このままでお話いたします」

 シュティーナはドアを開けようと思ったのだが、イエーオリがそう言ったので耳だけを傾けた。

「サネム殿下が、お呼びでございます」

「えっ」

 隣の続き間には王宮の侍女がふたり控えていたが、呼んだらいいのか、それとも自分で判断しなくてはいけないのか、シュティーナは少々混乱してしまった。

「い、イエーオリ」

 シュティーナは、裾の長い上着を羽織り、細くドアを開けた。

「殿下のお部屋へはわたくしがご案内いたします」

「どうしよう。寝間着に着替えてしまったわ」

「そのままで結構だと思いますよ。殿下はそのようにおっしゃっていました」

「そ、そう。す、すぐ行きます」

(行くの? ああ、行くしかないよね)

 サネムが呼んでいるということは、単純に話をしたいのか、お茶を飲みたいのか。

(それとも……)

 シュティーナは勝手に想像をし、顔を赤くした。

 一旦引っ込むと、鏡に自分の姿を写して確認し、スヴォルベリから持ってきていた香油を手に取り、髪に素早く乗せた。そしてすぐドアに向かう。静かに部屋から出ると、イエーオリは夕食時と変わらぬ格好で廊下に立っていた。

「イエーオリ、ありがとう」

「参りましょうか」

ランプを持ったイエーオリがゆっくりと進んでくれる。廊下は暗く広かった。

「あの、イエーオリ」

 シュティーナはおずおずと、広い背中に問いかける。すると長身が振り返り、眼鏡の奥の目が微笑む。目尻の皺が優しさを引き立てた。

「殿下のこと、イエーオリはどこで気付いたの?」

「数年前に伯爵様のお供で王宮にあがったとき、まだお小さかったサネム殿下を見かけたことがありました」

 シュティーナは初めて聞くことだった。

「そうだったの」

「スーザントでサネム殿下にお会いしたときには、気付かなかったのですが。わたくしも正確ではない記憶をお話して混乱させてはいけないと思いましたので」

 イエーオリは仕事柄、記憶力もあるのだが、子供時代の姿と、料理人の青年が同一人物だと気付くのが遅れてしまっても無理はない。

「お嬢様が肖像画を暖炉にくべなければ、もうちょっとわたくしの記憶の戻りが早かったかもしれませんね」

「……もう、いじわるね」

 ふたりで顔を合わせて、おかしくて笑う。廊下に笑い声を響かせてはいけないから、口を押さえた。