「お帰りなさ~いっ。お腹空いたぁ~」

 真砂が家に帰ると、リビングから深成が駆けてきた。

「先に食ってていいのに」

「やだ。一緒がいいもん」

 ぷん、と言い、深成は真砂から鞄を受け取って、いそいそとついてくる。

「ビール飲むよね?」

「お前が帰らないならな」

「泊まるもん」

「俺も今日は帰す気はない」

 上着を脱ぎながら、ぼそっと言う。
 そして、ん? と首を傾げる深成が持ってきたビールを奪うと、ぷし、と開けるなり、ぐいーっと飲んだ。

「そんな一気に飲むなんて珍しい。喉渇いてたの?」

「お前を帰さんためだ」

 食卓につきながら、深成がまたも、きょとんと首を傾げる。

「泊まるって」

 何を意地になっているのかと思いつつ、深成は箸を真砂に渡した。
 二人でご飯を食べながら、深成はきょろ、と部屋の中を見回す。

「やっぱり、わらわの着替え、置いておいて貰おうかなぁ。休みの日だったら課長の服でも全然いいんだけど、会社だったらあきちゃんにバレちゃいそうだったし」

「そうだな。お前、小さ過ぎるし」

 そんなに小さくない、とぶーぶー膨れる深成を、真砂はまじまじと観察した。
 いきなり仕事中に電話してきたし、明らかにその時は泣いていた。
 様子もおかしかった。

 それでなくても、その前に資料室での一件がある。
 あの悲鳴はただ事ではなかった。

 清五郎も何かあったと思っているし、真砂もそれは気付いた。
 しばらく見てきた六郎の人となりから想像するに、そう妙なことはしないというより出来ないだろうとは思うが……。

「なぁ。今日、資料室で何があった」

 ご飯の後で、真砂は洗い物をしている深成に聞いた。
 ん、と顔を上げた深成の頬が赤くなる。

「課長ってば。あんなところでキスしないでよ。恥ずかしいんだから」

「ちゃんと誰もいないのを確かめただろ。……て、違う! 俺とは何やろうがいいだろうが。その後だよ」

 何気に自分勝手なことを言う。
 自分は深成に何をしてもいいらしい。
 凄い自信だ。

「ほんっと、課長って自分本位というか。わらわが課長のこと好きじゃなかったらどうすんのさ」

「そんなわけあるか。お前、電話で思いっきり大好きって言ったじゃないか」

 うぐぐ、と深成が真っ赤になる。
 何故ここまでこの男は自信たっぷりなのか。
 その通りなだけに、言い返せないのが悔しい。

「キスだって、恥ずかしかっただけで嫌ではないんだろ」

 言いつつ、立ち上がった真砂が後ろから深成を抱いた。

「ちょ、課長っ……。わらわ、手、濡れてるしっ。濡れちゃうよっ」

「構わんよ」

 焦る深成を腕の中に閉じ込め、真砂は深成のうなじにキスをする。

「ひゃうぅんっ!!」

 ぞくぞくっと甘い痺れが全身を襲う。
 ふるふると震える深成を押さえつけるように強く抱き締め、真砂は深成の首筋に顔を埋めた。

「……あいつに何された?」

 ほとんど背後の真砂に身体を預けていた深成だったが、しばらくしてから聞こえた声に、ぼんやりしていた意識が戻ってくる。

「……え?」

「資料室で。虫じゃないだろ」

 意識は戻って来たものの、身体に力が入らない。
 真砂にもたれたまま、深成は、あ、と呟いた。
 そして、身体の前面に巻き付く真砂の腕を、きゅ、と握る。

「いきなり抱き締められたの。でも一瞬だったけど。ぎゅってされた瞬間に、わらわ、身体が勝手に動いて、思いっきり突き飛ばしちゃったし」

 く、と真砂の身体が揺れた。
 ぎゅ、と深成の身体を抱く腕に力を入れ、そのまま、くくく、と笑う。

「この小さい身体で、よくあいつを突き飛ばせたもんだな」

「だって嫌だった。考える暇もなく、自然に身体が動いてたんだもん」

「びっくりしただろうなぁ。お前からそんな力が出るとは思わないだろうし」

 面白そうに言いながら、真砂はくるりと深成を反転させた。
 正面から抱き締める。
 深成は大人しく、真砂の胸に納まった。



 そんな甘やかな時を経て、風呂に入った深成はいつものように真砂のシャツを借りて、ごそごそとベッドによじ登った。

「課長。研修っていつまでなの?」

 ちょん、と真砂の横に座り、深成が聞く。

「あいつの出来次第だが。来週からは本格的に実務に入れるし、期限を切って課題も出した。来月末までの課題の出来と実務能力でその後の判断をすることになるが、まぁ……早くても再来月半ばぐらいかな」

 文庫本から目を上げて言い、真砂は深成を見た。

「とっとと終えて欲しいか?」

「う~ん……ちょっと怖いんだよね……。嫌な人ではないし、きっといい人なんだと思うんだけど」

「怖い? 手ぇ出されたからか?」

 小さなサイドテーブルに本を置き、真砂が深成の手を掴んで、ぐい、と引き寄せる。

「それもあるけど。暑苦しいというか」

 えらい言われようだ。
 深成からすると、さして仲良くもない人間に、何故あそこまで心配されないといけないのかがわからない。
 自分の規格外の幼さもわかっていないし、己がどれだけ他人の庇護欲を掻き立てるのかもわからない。

 そもそも六郎の心配の仕方も異常なのだ。
 清五郎も深成のことを可愛いと言うし、庇護欲を掻き立てる、と認めているが、そこまで構ったりしない。
 捨吉ですらそうだ。

 その辺りの程よい距離感が、六郎にはない。
 彼は根本の感情が違うのだから、仕方ないかもしれないが。
 根本の感情が一緒の真砂は、六郎のように熱く迫ることがないので、余計深成が引いてしまうというのもあるかもしれない。

「何か、心配してくれるのはありがたいんだろうけど、突っ走り過ぎっていうか。帰りにね、ちゃんと言おうと思って一緒に帰ったんだけど」

 引き寄せられ、真砂に寄り添いながら、深成が言う。

「資料室でさ、彼氏がいるの? て聞かれて。何かあきちゃんに聞いたって言ってたんだけど、わらわ、あきちゃんにそんな話したことないし」

「ああ、お前が帰ってから、そんな話してたな。あきはあいつをからかっただけのようだぜ」

「え、そうなの? もぅ、あきちゃん~」

 なぁんだ、と少し安心したが、はたして本当に気付いていないのだろうか、とも思う。
 でもあきは、社内恋愛は隠しておくべき、と言っていたし、気付いても言いふらしたりしないだろう。
 情報収集能力は優れているが、あくまで自分の楽しみなので、他に漏らすことなどしないのだ。

「まぁいいや、あきちゃんなら。あ、でも、あきちゃん、わらわのマンションに来たことあるでしょ。で、六郎さんは飲み会の帰りにわらわが帰ったマンションが、あきちゃんに聞いたマンションと違うって気付いたみたいで。で、何故かわらわが、そのマンションの住人に弄ばれてるって言うんだよね」

「俺にかよ」

 顔をしかめて、真砂が言う。
 深成も、うーん、と首を傾げた。

「課長だとは思ってないでしょ。別に六郎さん、課長のお家知らないだろうし。何でそう思うのかがわかんないんだけど、不倫してるとか、わらわが嫌々そのマンションに通わざるを得ないんだったら、自分が何とかするとかって言ってさ」

 真砂は眉間に皺を刻んだまま、頭を抱えた。
 冷静そうに見えて、相当思考は暴走するタイプのようだ。

「あ、多分ね、わらわがはっきり彼氏って言わなかったからかもしれない」

 はた、と深成が真砂を見た。

「だって課長、付き合おうとか言ってくれないから、わらわ、自分の立場がわかんなかったんだもん」

 少し頬を膨らませて言う深成を、真砂がちらりと見る。

「そんなもん、いちいち言わんでもわかるだろ」

「課長が好いてくれてるのはわかっても、彼女かそうじゃないのかは、はっきりして欲しいの!」

 不満そうに言う深成に、真砂は息をついた。
 そして、とん、と深成を押す。
 ぼす、とベッドに倒れ込んだ深成に覆い被さる。

「じゃあ、はっきり俺のものにしてしまおうか」

 耳元で言う。
 どきん、と深成の鼓動が跳ね上がった。

「えっと。あの、それは、ほら。課長、ちゃんと言ってくれたじゃん。わらわ、課長の彼女だって思っていいんでしょ? 鍵くれたのは特別だって言ってたじゃん」

 わたわたと、真砂の下で深成が言う。
 今のところ、特に真砂の手は動いていない。

「そうだ。それでね、相手の人の立場上、大っぴらに彼氏だって言えないんだって言ったら、そんなこともはっきりさせてくれないような人は、遊び人だって。彼女だってはっきりさせないなんて、遊ばれてる証拠だって言われて、わらわ、確かに課長にそこまで言って貰ってなかったから、ショックでさ」

「それで、いきなり電話してきたのか」

「うん……。何か、凄い悲しくなって」

 ふぅ、とまた息をつくと、真砂は少し身体を起こして、深成の前髪を優しく撫でた。

「俺自身は、お前は相当特別扱いしてるつもりなんだがな。ここまでしてるんだから、わざわざ言葉で言わんでもわかるだろうと思ってたが」

「課長がわらわに優しくしてくれるのはわかってるよ。でもそれと、恋人かどうかっていうのはまた違うもん。好きなだけで、恋人じゃないってのも、あるかもでしょ」

「そんな面倒臭いことするかよ。ここまで密に付き合ってて、恋人じゃないわけないだろ。つか、結局お前、あいつに今日一日で二回も泣かされたわけか」

 あの野郎は、と舌打ちする真砂に、深成は嬉しくなった。
 はっきり彼女と認めてくれたのも、六郎のお蔭と言えなくもない。

 そう考えれば、深成にとって六郎はキューピットのようなものだ。
 六郎にとってはこの上なく不本意だろうが。

「でもお前のために研修を切り上げるわけにもいかんしな」

「うん、お仕事だもん。それはいいの。課長がちゃんと言ってくれたし」

 にこりと笑い、深成は真砂の頬に両手を添えると、ちゅ、と軽くキスをした。
 えへへ、と照れ臭そうに笑う。
 真砂が深成の地位を確立してくれたことが、よほど嬉しかったらしい。

 深成のキスに、真砂も少し照れ臭そうに視線を逸らせた。
 自分からは結構平気でそういうことをするくせに、相手からされると照れるようだ。

「……ま、来週からは忙しくなるだろうから、あいつもそうそうお前に構ってられんだろうさ」

 誤魔化すように言い、真砂は、ぎゅっと深成を抱き締めた。
 ここで自分からキスしてしまうと、多分もう止まらない。
 そんな遠慮をする自分を不思議に思いながらも、真砂はとりあえず、我慢が効くうちに寝入ってしまおうと目を閉じた。