負け犬も歩けば愛をつかむ。

会った時から思っていたんだ、……今日の彼女は、いつもに増して綺麗だと。

だが、こんなに惹かれるのは、普段と違うメイクだからとか、密室で至近距離にいる状況のせいなんかじゃない。

──俺が、彼女を好きだからだ。



抑えていた理性が飛んだ瞬間、春井さんの肩を運転席のシートに押さえ付けた。

目を見開く彼女の形の良い唇を親指でなぞり、切なさの滲む吐息とともに囁く。



「……奪ってもいいか?」



この唇を、君の心を、俺のものにしたいんだ──。


月明かりだけが差し込む暗い車内でも、白く輝いているように見える彼女の顔に、そっと唇を寄せた瞬間。

後部座席で彼女のスマホが鳴り、俺は我に返った。



「悪い……何やってんだ俺は」

「ぁ、い、いえ……」



気まずそうに無理して笑う春井さんに罪悪感が襲う。こんなことしたって、彼女を混乱させるだけなのにな。

何事もなかったかのように笑って見送ったが、彼女の車が見えなくなると盛大なため息を吐き出した。


一瞬どうでもよくなってしまった……上司と部下という関係も、彼女に好きな人がいるという事実も。

こんなふうに、我を忘れるくらい誰かを求めるのはいつぶりだろうか。

少なくともここ十年くらいは、恋愛において情動的になることはなかった気がする。



「俺、本気なんだな……」



額に手をあてながら、どこか他人事みたいに呟く。

深みにハマりそうな危機を感じつつ、若干ふらつく身体でマンションへと向かうのだった。