それからしばらくしたある日。

朝田先生に、適度な運動も大切、と言われた。
だから、私は毎日、屋上まで階段で行くことにしている。

ゆっくり、ゆっくり歩く。

ほとんど歩いている人はいないから、学校にいるときみたいに焦らなくて済む。

病院にいる間だけは、私は私のテンポで生きることが許されるから。


だけど、案外あっけなく屋上に着いてしまうものだ。

なんだか物足りなくて、もう一度階段を下りはじめた。

それがいけなかったんだ。


階段の滑り止めにつまずいて、バランスを崩した。

前かがみに数段すべり落ちて―――


あれ?

来るはずの衝撃が、いつまで経っても来ない。



「危ないじゃないか。」



この声、どこかで聞いたことがある気がする。



「君はやっぱりドジなんだな。ほら、もう自分で立てるだろ。重い。」



ふと我に返ると、私は階段の下にいた彼に身を預けていた。



「ご、ごめんっ!」



間違いない、あの人だ。

自動販売機事件のときの彼だ。


慌てて彼から離れる。

軽く動悸を感じて、思わず胸に手を当てた。



「大丈夫か?」



あれ、心配してくれるの?

思いのほか真面目な顔で、本当に心配そうに彼は尋ねた。



「大丈夫、だと思う。」


「君、病気なのか?」


「……。」


「あ、いや。そんなこと訊かれたくないよな。すまない。」



彼の揺れる瞳を見ていたら、不思議と言葉が滑り落ちた。



「心臓が弱いの。生まれつき。……あなたは?」


「俺は……、患者じゃないよ。」


「そっか。」



訊いてはいけないことを訊いてしまったような気がしたのは、彼の横顔に影が差したように見えたから。

私は、慌てて黙っている彼に、訊いてみた。



「あの、名前……、」



驚いたように彼が私を見る。



「俺の名前を知りたいのか?」


「うん。……だって、」



その後に続く言葉が思い浮かばない。

だって、何だろう。

この人と、これから関わることなんて、もうないかもしれないのに。



「原田悠(はらだ ゆう)。お前は?」



少し想像と違う、優しい響きの名前だった。
それに、そう言った時の彼の目は、いつもの冷たさではなく、穏やかな光が宿っているように見えて。



「前島奈緒(まえじま なお)。高2。あ、でももしかして、留年とかしちゃうかも。」


「俺も高2。……留年なんかしたら、お前ヤンキーだと思われるぞ。高校でダブってるなんて。」



そう言って、彼は笑った。
私が初めて見る、彼の笑顔だった。

少し寂しそうで、心のどこかがきゅっと掴まれるような笑い方。



「そうだね。箔がつくね。」


「お前、箔がつく、の意味間違えてないか?」



言われて、私も笑った。
くつくつと、体の底から込み上げてくるような笑いが、しばらく止まらなかった。

初めてだ、と思う。

私だって、最近笑ったの、初めて。



「お前、どうせ毎日暇なんだろ。屋上に来れば、話し相手くらいにはなってやるぞ。」



その言い方に、思わず吹き出しそうになる。



「どうしようかな。原田君が、どうしてもって言うなら来ようかな。」


「じゃあ、別にいい。」



そう言って、さよならも言わずに歩き出す彼。

自分で言ったくせに、なんだか寂しくなって、呼び止めたくなる。



「ねえ、」
「なあ、」



私が呼び掛けるのと、彼が振り返るのとは同じタイミングだった。



「なあ、やっぱり来いよ。……どうしても。」



私はにっこり笑って答える。



「いいよ。」



久しぶりの心からの笑顔と、とりとめのない言い合い。

本当に久しぶりに、爽やかな気分になった。