「先生、あの人、篠原さんは悪魔だよ。」


それまでの空気が一瞬にして張りつめたのが分かった。

夏目に怒鳴られるかもしれないとは、覚悟していたけれど。


「いくら何でも悪魔はないだろう。」


静かな口調と裏腹に、夏目は怒った表情で振り返った。

鋭い視線に射抜かれて、一瞬ひるみそうになる。


「先生だって気付いてるはず。」

「どういうことだ。」

「まだ分からないの?」


夏目と正面からにらみ合う体勢になった。


挑戦者は私だ。


篠原さんは夏目の彼女なのだから。


「私を階段から突き落としたのあの人だよ!邪魔しないで、って。そう言ったの!」

「そんなわけが、」


信じようとしない夏目がもどかしくて、私は思わず両手で、夏目のシャツの腕の部分を握った。


「合鍵作るのもあの人だったら簡単でしょ?先生のおうちに出入りしてるなら、テストの答案盗むのだって簡単!私を呼びだして、交換条件だと言って鍵を渡したの。階段から篠原さんに突き落とされたことを、先生に言わない交換条件!そして、」

「もういい!」


夏目の顔が歪んでいた。
私ははっとして言葉を止める。


「もう、それ以上言わないでくれ。お願いだ……。」


そう言った夏目の声は苦しそうだった。

分かる。

自分についていた嘘が自分自身にばれた時ほど、苦しいものはないと。

夏目が気付かないはずはない。
でも、知らないままでいたかったのだろう。

私はそっとつかんでいたシャツを離す。

気付くと夏目の目から、涙が零れ落ちていた。


「俺は……俺はもう、大事なものを失いたくないんだよ。」

「うん。」

「俺は、一番大事な人を守れなかった。だから、だからもう、誰のことも本気で愛さないと決めたんだ。」

「うん。」

「でも、普通の幸せなら、ごく一般的な幸せなら……俺にも手が届くと思った。」

「うん。」


夏目の気持ちは痛いほどわかる。

私も悲しくなって、いつのまにか同じように涙をこぼしていた。


万座毛には朝方であるためか観光客はまばらだ。

だからそんなふうに二人佇んでいても、好奇の視線を向けられることはなかった。


随分長い時間そうしていただろうか。


「なんで小倉が泣いてるんだよ。」


夏目が笑いを含んだ声で言った。
私は少しほっとして、ふっと笑う。


「うん。おかしいね。」


夏目は海を見つめて、深呼吸した。


「君は、僕のために泣いてくれるんだね。」


夏目が久しぶりに温かいまなざしで私を見つめていた。

勇気を出して伝えた思いが、しっかり届いたことに気付く。


「どこか、遠くへ行こう。」


夏目が言う。


「うん。」


私はしっかりとうなずいた。



それがどんな困難な道であっても、もう逃げないと決めたから――