「おかえり、唯ちゃん。」


悩んで迷って、やっと開いた扉の向こうで、温かく迎えてくれるマエゾノさん。

何も知らないマエゾノさんは、能天気なくらいにニコニコしていた。


楓の気持ちが、ほんの少しだけど分かった気がした。


この人は、何も考えていないんだ。

自分のしていることが、周りの人をどんなに悲しませているか。

何も分かっていないんだ。



「マエゾノさん。」



「どうしたの?唯ちゃん。」



不思議そうな顔で首を傾げるマエゾノさん。

だけど、私はもう、マエゾノさんの前で微笑むことなんてできない。

この一瞬だって、楓を裏切り続けている気がして。



「……帰ってあげて。」








その一言で、マエゾノさんはすべてを理解したようだった。

途切れることのない沈黙が、玄関に立ち尽くしたままの私たちを包む。







「ごめんね、唯ちゃん―――――」







静かに頭を下げたマエゾノさんが悲しくて、私は思わず目を逸らした。






「恨むなら、憎むなら、全部俺にして。……君のお母さんは、何も悪くない。」





誰も悪くない。
私は、誰のことも恨まないし、憎まないよ、マエゾノさん。





「ただ、君のお母さんも、俺も……、寂しいでいっぱいだったんだよ。」





ああ、そういうことだったのか、と思った。

欠けたものを補い合うように、二人は愛し合っていたんだね。


私と先生も、同じだね―――――





「お母さんによろしく。……じゃあ。」





そう言うと、あっけないくらいすぐに、マエゾノさんは玄関から出て行った。

私の胸に、切ないものが込み上げる。


どうして、大事なものはいつも、この手のひらをすり抜けていってしまうの?




―――「これからもずっと、うちにいてほしいな。」

―――「唯ちゃん、ごめん。それだけは約束できないよ。」



マエゾノさんが抱えていた苦しい気持ち。
それもまた、理解してあげられなかった私。

私はこうして、大切な人の本当の気持ちに気付かないまま、知らずのうちにいろんなものを失っているんだろう。




「待って!」




遠くに消えていくマエゾノさんの背中は、とても小さく見えた。




「待って、マエゾノさん!!」




走って走って、ようやく声が届いて。
そしたらマエゾノさんは、振り返らないまま足を止めた。



やっと追いつくと、私はその背中に向かって言ったんだ。




「マエゾノさん、ありがとう。ほんとに、ありがとっ、それだけ、伝えたくて、」



「どうして、」



「私を、……お母さんを救ってくれて、ありがとうございます。」




遠慮がちに振り返ったマエゾノさんの目から、涙が溢れた。




「どういたしまして。」




はっきりと言って、また歩き出したマエゾノさん。

彼はもう、振り返らないのだと悟った。


その背中は、さっきより大きく見えた。

なんだか、少しかっこよくて。



もう二度と会えない人が、私の大好きな人が、こうしてまたひとり、私の前から姿を消していった―――