「さあ、着きましたよ。」


先生が車を停めたのは、小高い丘の頂上付近だった。


「ここは?」


「ここなら誰にも会わないと思って。私の知り合いの開いている、レストランですよ。」


雨の日の夕方。
駐車場らしき場所には、先生の車以外停められていないようだった。


「誰にも会いませんか?」


「ええ。安心してください。」


先生が車を降りて、私の側まで迎えに来てくれる。
いつかの、大きな黒い傘で。

遠くから見たら、きっと、私たち。

普通の恋人同士以外には、見えるはずもなくて。



先生がドアを引くと、カラン、と音が響いた。



「いらっしゃいませ。」



先生は、傘を畳んで傘たてに入れる。



「ああ、陽か。久しぶりだな。」



迎えてくれた男の人が、ガラッと口調を変えて先生に話しかけた。
年は、先生と同じくらいだろうか。
とても感じのいい、明るい人だった。



「ああ、久しぶり。元気にしてたか?」



先生の口調も、いつもと全然違う。
それだけで、もう私の胸は高鳴りはじめる。



「あれっ?その、後ろにいる子は?」


「生徒。」


「へっ?生徒さん?」



とても驚いた表情で、彼は目を見開いた。



「陽、まさかお前……。」


「詮索するな。今日は客として来たんだ。」



いつもにこやかな先生の、憮然とした表情なんて初めて見た気がする。
それさえも面白くて、私は飽きずに先生を見つめてしまう。



「まあ……話は後で聞かせてもらうとして。カウンターでいいですか?」


「まさか。」


「……。陽、あの席、か?」


「そうしてくれ。」



店の人は、大きく息を呑んだ。
そんなに意外なことなのだろうか。
私には、ちっとも分からない。



「分かりました。どうぞ、こちらへ。」



急にかしこまった顔をした彼は、先生と私を店の二階へと案内する。
そこには、テーブルが一つだけあって、明るさを抑えた電灯が、ひとつ光っていた。

周りには、大きな窓があって。
そこには、見たこともないほど綺麗な夜景が広がっていて。

特別な感じのする席。

先生は、その席を見回しながら、心なしか懐かしそうな顔でふっと頬を緩めた。



「ご注文がお決まりでしたら、ベルを鳴らしてください。」


先生は、うん、と頷く。
そして、私を促して座った。



「どれでもいいですよ。ここは、パスタが人気です。」


「先生は、どれにしますか?」


「私は、これです。」


嬉しそうに先生が指差したパスタは、鮭とほうれん草のクリームパスタ。
ちょっと意外だ。


「じゃあ、私もこれにします!」


「同じのでいいんですか?」


「先生と、同じのがいいんです。」


先生は、ふっと頬を緩めると、ベルを押した。

店員さんがやってくる。



「これを、ふたつ。」



「……はい。」



店員さんの顔には、見る見るうちに笑みが広がっていった。
一体、その顔が何を意味しているのか、私には分からない。



「かしこまりました。少々お待ちください。」



その不思議な店員さんの背中を、私は目で追う。



「あの人、お友達なんですか?」


「……ええ。高校時代からの、悪友ですよ。」


「悪友?」


「まあ、いいのです。彼のことは気にしなくて。」


「店長さんなのですか?」


「ええ。彼はこの店のオーナー。念願が叶って店を構えることができたのですよ。」



彼のことを話すときの先生は、どこか懐かしそうで、寂しそうな顔をしていた。



「長い人生ですから、いろんなことがあります。今こうして、笹森さんとここにいることも、少し前の私にはまったく予想だにしなかったことです。」


「私も、です。」


「もう二度と、この席に座ることはないと思っていた。」


もう二度と―――


その切ない響き。

そうか、先生は前にも、この席に座ったことがあるんだ。

その時一緒にいたのは、……。


「ごめんなさい。余計なことを言いましたね。忘れてください。」


先生は、置かれた水を一口だけ含んで、コトリ、とグラスを置いた。



それでもいい。
いいんだよ、先生。



あなたと一緒にいるときに、その左手の薬指に輝く指輪を、意識しなかったことはない。



寂しすぎる恋だけれど、悲しすぎる恋だけれど。

でも、あなたのそばにいられるだけで、私は何も要らない―――



窓の外の夜景が滲んで見えた。

まだ、夜は始まったばかりだったのに。