「ケホッ。」


「先生。」


天野先生の咳が、私を一気に現実に引き戻す。


「はい?」


「その……咳。」


思わず口にしてしまった言葉が、私に後悔と悲しみと焦燥感と、様々な感情を連れてくる。


「あ、いえ。何でもないですよ。癖のようなものです。」


「……そうですか。」


先生は、嘘をつくのが上手い。
感情を隠すのも、得意だから。


ねえ、先生。


私はどうして、あなたを好きになってしまったのかな。



「笹森さん。」


「はい。」


「もしも、今度の日曜日。」


「はい。」


「雨が降ったら。」


先生は、にっこりと笑った。
私が大好きな、穏やかな表情で。


「もしも、雨が降ったら?」


「どこかに行きましょうか。」


「ふたりで、ですか?」


「ええ。ふたりで、です。」



沈んでいた心が、先生の一言で浮き立つ。

今この瞬間の幸せに、身を委ねたくなる。


だけど、それは先生を失う恐怖に、裏打ちされている感情だったのだけれど。



「はい。」


「決まりですね。」


「どこに行くんですか?」


「それはその日のお楽しみです。」


ひそめた声にドキドキして。
ふたりだけの秘密に、彩られた恋。


だけど、昨日見た天気予報を思い出して、私の心はしぼんでいく。



「そういえば天気予報では、降水確率は50%でした。」


「雨ですよ、きっと。」


「え?」


「笹森さんに会った日も、雨だったじゃありませんか。」


「先生。」



覚えていてくれたんだ。

あの日。

図書館で天野先生に会った日。



外は冷たい雨が、打ちつけるように降っていた。

だけど思い出の中の図書館は、春のような暖かさに包まれているんだ―――



「もしも、雨なら。」


「はい。」


「笹森さんの家の近くの、あの公園で待っていますよ。」


「はい。」



あの頃の私たちは、いつも、雨の中にいるようだった。

荒れ狂う嵐の中でも、数学科準備室は私たちのシェルターだった。

閉ざされたドアの中だけが、私になれる唯一の場所だったんだ―――